第一弾|布をめぐる10の問い
第8回|繕うだけなら、文様はいらないはずだった。
刺し子を見ていると、つい文様に目がいきます。麻の葉、青海波、花刺し、網代・・・などなど。規則正しく並んだ針目は美しく、いま私たちが刺し子を楽しむときにも、どの文様を刺そうかと選ぶところから始めることがあります。
でも、第7回まで古い資料を辿ってきて、一つ気になることがあります。もともと布を刺した理由が、薄くなった布を補強するためだったり、布を重ねて丈夫にするためだったのだとしたら、繕うだけなら、文様はいらないはずです。
破れたところを塞ぐ。布がずれないように留める。弱くなったところを丈夫にする。それだけなら、針目は目立たなくてもいい。では、なぜ刺し子には文様があるのでしょうか。
雑巾にまで、文様があった
福井貞子氏の『染織の文化史―木綿と藍―』を読んでいて、面白い記述がありました。そこに出てくるのは、晴着でも祝着でもありません。
雑巾です。
明治中期から昭和初期、さらに第二次世界大戦後の衣料不足の時期には、蒲団地などの古布を雑巾へ作り替えた例がありました。そして、その雑巾には、ただ真っ直ぐ縫うだけではなく、雷文、碁盤状の線、斜めに交差する菱形などの刺し方が記録されています。
最後には雑巾になるまで布を使い切った、という話は第3回でも触れました。でも、その雑巾にまで模様のような針目がある。これは、ちょっと面白いですよね。
もちろん、「美しくしたかったから」と資料に書かれているわけではありません。何度も針を通せば布は丈夫になりますし、縦横や斜めに刺すことにも、補強するうえで理由があったのかもしれません。ただ、無造作に縫うのではなく、同じ動きを繰り返しながら規則正しく針を進めていけば、そこには自然と形が現れます。
補強するために刺しているうちに、文様になったのでしょうか。それとも、同じように針を通すなら、少しでもきれいに刺したかったのでしょうか。資料を見ていると、「実用」と「装飾」の境目が、少しずつ曖昧になってきます。
丈夫にすることと、美しくすること
徳永幾久氏の『刺し子の研究』には、その境目がよく分かる例があります。学童用の「タチッケ」と呼ばれる衣服では、傷みやすい部分に当て布をし、その上から「ジャンバラ刺し」という刺し文を施したものが紹介されています。
タチッケ(裁付)とは、腰や脚を動かしやすいように作られた下衣で、現在の感覚でいえば、脚に沿った作業用のズボンや股引に近い衣服です。徳永氏の資料には大人用だけでなく子ども用も残されていて、その学童用タチッケに刺されていたのが「ジャンバラ刺し」でした。これは山形県の飛島に伝わる刺し文様で、「マチゲ刺し」とも呼ばれています。傷みやすいところに別の木綿布を当て、その上からこの文様を刺していました。
徳永氏は、それを「補強をかねた装飾文」と記録しています。つまり、補強なのか、装飾なのか、どちらか一つではありません。丈夫にするための針目が、そのまま文様にもなっていたのです。
足袋にも興味深い例があります。伸びる部分には網目文、縮みやすい部分には斜めの刺しというように、場所によって刺し方を変え、足の動きに合わせて布を支える工夫が見られます。その一方で、同じ足袋の中には形を保つための刺しもあれば、装飾として施された刺しもありました。
福井氏は、刺子が布の補強から始まり、やがて絵文や幾何文による美的効果へ展開したと説明しています。けれども、実際に残されたタチッケや足袋を見ると、一つの衣服の中に「丈夫にするための刺し」と「文様として見せる刺し」が一緒に使われています。つまり、実用の役目が終わったところから装飾が始まった、とは単純には言えません。布を丈夫にするために刺しながら、その針目を規則正しく並べたり、文様として見せたりすることもあったのです。
そう考えると、「最初は実用だけだった刺し子が、ある時から装飾になった」と一直線に考えるだけでは、実際の暮らしをうまく説明できないのかもしれません。
文様は、どこから生まれたのか
では、その文様自体は、どうやって生まれたのでしょう。先ほどのジャンバラ刺しには、興味深い話が残っています。
徳永氏は、飛島のジャンバラ刺しのもとになったのは、「カヤモノリ」という海藻ではないかと考えています。島の人たちがいつも目にしていた海藻のくびれた形を強調して図案にしたというのです。出来上がった形が蛇腹(じゃばら)のように見えることから「ジャンバラ」、睫毛(まつげ)のようにも見えることから「マチゲ刺し」と呼ばれるようになったのではないか、と徳永氏は推測しています。
つまり、文様はどこかから完成した図案として突然やってきたものばかりではなく、日々の暮らしの中で目にしていたものが、針目の文様になった例もあったということです。後ほど出てくる田や枡、銭、花なども、自然や仕事、身の回りの道具に由来する文様です。暮らしの中にあった形を見て、それを布の上に写し取る。文様が生まれる道筋の一つが、ここから見えてきます。
行商に使われた、刺子の大風呂敷
福井貞子氏の資料には、大きな刺子の風呂敷も出てきます。紺木綿の五幅の大風呂敷に、白い糸で麻の葉、網代、十四弁の菊花などが刺されていました。
この風呂敷は、飾って眺めるためのものではありません。商品などを包み、行商の人が背負って運ぶためのものです。大きな荷物を包めば布には力がかかりますから、縁や四隅、布をつないだところを丈夫にする必要もあったでしょう。
福井氏は、この風呂敷を背負ったとき、刺子の文様が背や胸の位置にくることにも注目し、その姿に「動的な美意識」を読み取っています。これは福井氏による解釈ですが、荷物を運ぶための実用品でありながら、実際に使ったときには文様が人から見える位置にくるというのは、とても面白いところです。
丈夫にするための針目と、人に見える文様。ここでも二つは、きれいには分かれていません。そして資料をさらに読んでいくと、針目にはもう一つ、別のものまで加わってきます。
祈りです。
文様に、何を願ったのか
徳永幾久氏の『刺し子の研究』には、最上地方の祝袢纏について詳しい記述があります。ここでいう最上地方は、現在の山形県北部、新庄市や最上町などを含む地域です。
そこに刺された文様には、五合枡、一升枡、波、麻の葉、花、銭、田、ソロバン、柵などがありました。「枡(ます)」は、米や穀物などを量るために使われてきた容器です。一升は十合ですから、一升枡は一升を量る枡、五合枡はその半分の五合を量る枡。その四角い形を文様にしたものが、一升枡文や五合枡文です。
枡や田んぼ、銭、花。どこか遠い世界の特別な図柄ではなく、暮らしのすぐそばにあったものです。
徳永氏は、そうした文様に、収穫の豊穣、田圃が広がること、生活の安定、長寿、出世、厄除け、人を災いから守ることなどへの願いが込められていたと説明しています。そして、この地方の刺し文を、暮らしの周囲にあるものから考え出された文様として捉えています。
この記述を読んでいると、文様が単なる「飾り」ではなくなってきます。今年も作物が無事に実ってほしい。家族が健康でいてほしい。災いが来ませんように。少しでも暮らしがよくなりますように。そんな願いが、身近な形となって衣服に刺されていたのだとしたら、その一針一針は、今の私たちが文様を楽しむ感覚とは少し違って見えてきます。
もちろん、昔の人がみな同じように祈りながら針を持っていた、と言うことはできません。地域も時代も暮らしも違います。ただ、病気や天候、作物の出来、出産など、人の力だけではどうにもならないことが、今よりずっと暮らしの近くにあった時代がありました。そうした日々の中では、祈ることもまた、暮らしから遠く離れたものではなかったのではないでしょうか。そして、その願いを託す場所の一つが、毎日手にする布や身につける衣服だったのかもしれません。
子どもが、無事に育ちますように
祈りを感じる針仕事は、徳永氏の資料だけではありません。福井貞子氏の『染織の文化史―木綿と藍―』には、鳥取県東伯町古布庄村で聞き取られた、刺子入りの襁褓(むつき)の話があります。
襁褓とは、赤ちゃんに使う布のことで、現在の「おむつ」に通じる言葉です。ただし、ここでいう襁褓は、現在の紙おむつのようなものではありません。紺木綿を重ね、そこに刺子を施した乳児用の布です。
娘の懐妊を知った実母が婚家へ出向き、出産を待ちながら、その襁褓に毎月刺子をしていったといいます。そこには松皮菱、桜、梅花などが刺されていました。
福井氏はそこに幸福への願いや母の思いを読み取っています。この部分は著者の解釈として分けて考える必要がありますが、少なくとも、娘の出産を待ちながら、その子が使う布に針を進めていた母がいたという話は残っています。
いつ生まれるだろう。無事に生まれてくれるだろうか。一針、また一針と進めながら、どんなことを考えていたのでしょう。今となっては分かりません。でも、そんな時間の中で刺された松皮菱や桜、梅花を、ただ「きれいな文様」と呼ぶだけでは、少し足りないように私は感じます。
瀬川清子氏の『きもの』にも、針目に守りの意味を見ていた各地の習俗が記録されています。子どもの背に付ける背守り、前掛けの端に施した刺し目を蛇除けや魔除けだと説明した村の人々、そして子どもが丈夫に育つように、たくさんの家から少しずつ布をもらい、それを縫い合わせて一着の着物にする「千枚衣」のような習俗もありました。
もちろん、背守りや千枚衣を、そのまま刺し子と呼ぶつもりはありません。ただ、布に針を通すことや、布をつなぐことに、丈夫にする以上の意味を感じていた暮らしがあった。 これは、刺し子の文様を考えるうえで無視できないことだと思います。
「守るために縫う」は、教本にも残っていた
さらに時代を下って、1927(昭和2)年刊の川島裁縫女學校編『現代和洋裁縫全書』を開くと、「背守の縫方」という項目が出てきます。紅や白の糸、あるいは青・黄・赤・白・黒の五色糸を使うことや、針数を一年十二か月になぞらえて縫うことまで、具体的な方法が書かれています。
この本は民俗学の本ではなく、裁縫を教えるための技術書です。つまり20世紀に入ってからも、「背守り」は昔話の中だけのものではなく、裁縫の技術として教本に載っていました。
丈夫にする。暖かくする。美しくする。そして、守ってほしいと願う。人は一枚の布に、いくつもの役割を持たせてきたのかもしれません。
文様は、飾りだけではなかった
最初の問いに戻ります。
繕うだけなら、文様はいらないはずだった。
布を丈夫にするだけなら、美しい麻の葉を描く必要はありません。豊作や長寿を願う形を選ぶ必要もありません。でも資料を一つずつ見ていくと、実用と文様の間には、私が最初に想像していたほど、はっきりした境目がありませんでした。
雑巾にも規則正しい刺しがある。仕事着には「補強をかねた装飾文」がある。足袋では身体の動きに合わせて刺し方が変わり、大風呂敷は荷物を支えながら、人から見える位置に文様が現れる。そして祝袢纏や襁褓、背守りのように、針目や文様に豊作や長寿、無事への願いを託した例も残っています。
ここからはcanohaの考察になりますが、私は、刺し子の文様は、日々の暮らしから切り離され、後から単なる「飾り」として付け加えられたものではないと思っています。
布を補強すること、身体を守ること、きれいに刺すこと。そして時には、豊作や長寿、家族の無事を願うこと。一つの針仕事が、こうしたいくつもの役割を同時に持つことがあったのではないでしょうか。だから、必要から始まったはずの刺しが、こんなにもさまざまな文様になっていったのかもしれません。
ただ、実際にその布を刺した一人ひとりが、何を考え、何を願っていたのかまでは、多くの場合、資料には残っていません。私たちに残されているのは、布そのものや針目、使われ方、そして文献に記録された言葉です。そこから、その針仕事が暮らしの中でどんな役割を持っていたのかを考えていく。それが、この刺し子ジャーナルでやってみたいことなのです。
そして、ここまで古い布の暮らしを見てきて、今度は逆の疑問が出てきました。
破れたら繕う。薄くなれば重ねる。着られなくなれば、別のものへ作り替える。布にまだ役目が残っている限り、針を入れて使い続ける。そんな暮らしが長くあった一方で、今の私たちは、服が傷んだとき、「直す」より「買う」を選ぶことも多くなりました。
いったい、どこで変わったのでしょう。
服は、いつから「直すもの」ではなく「買うもの」になったのか。
なんとなく想像はできますよね。
次回は、少しずつ私たちの時代へ近づいてみたいと思います。
刺し子ジャーナル|文献からたどる刺し子
第一弾|布をめぐる10の問い