刺し子ジャーナル|文献からたどる刺し子
第一弾|布をめぐる10の問い

第7回|私たちは何を刺し子と呼んでいるのか

「刺し子は、いつ始まったのですか?」

刺し子の講座をしていると、よく聞かれる質問です。でも、これがなかなか難しい。「刺し子」という言葉が最初に記録された年が分かれば、そこを始まりにしていいのか。私は、少し違うのではないかと感じています(そもそも「刺し子」が最初に記録された年も、今調べている限りでは分かっていません)。

おそらく名前がつくより前から、人は布に針を通していたように思います。布を重ねたり、破れたところを縫ったり、弱くなった布を丈夫にしたりしていたかもしれない。だったら、「刺し子」という名前がいつ現れたのかを探す前に、昔の人が布に対して何をしていたのか。 そこから考えた方が、何か分かるのではないか。

ということで、8世紀までさかのぼってみます。

8世紀。ぼろぼろの衣服を着る人がいた

武部善人氏『綿と木綿の歴史』には、山上憶良の「貧窮問答歌」が紹介されています。8世紀初め頃の歌です。
寒い夜、麻でできた寝具をかぶり、持っている布の肩衣を重ねて着ても寒い。さらに貧しい人々については、綿もなく、ぼろぼろになった布の肩衣を身につけて暮らしている様子が描かれています。ここでいう「綿」は現在の木綿ではなく、蚕の繭から作る真綿です。

もちろん、この歌に「刺し子をした」と書かれているわけではありません。ここから分かるのは、古代にも布を重ねて寒さをしのぎ、傷んだ衣服を着続けていた人々がいたということです。
ただ、布を一枚作ること自体が大仕事だった時代です。傷んだ布を、縫ったり重ねたりして使い続けることはなかったのでしょうか。「貧窮問答歌」からそこまでは分かりません。ですが、同じ8世紀には、布を重ねて刺し縫った実物が残っています。

8世紀の正倉院に残る「刺納(しのう)」

正倉院に、九条刺納樹皮色袈裟(くじょうしのうじゅひしょくのけさ)という袈裟が残されています。
聖武天皇ゆかりの品で、756年、光明皇后が聖武天皇の遺愛品を東大寺大仏へ献納した際の目録『国家珍宝帳』の筆頭に記されたものです。宮内庁正倉院では「不定型な平絹を刺し縫した特殊な製法」と説明されています。
さらに奈良国立博物館の解説を見ると、「刺納とは刺し子縫いのこと」とあります。

ここで「刺し子」という言葉が出てきます。ただし、これは奈良国立博物館が現代の私たちに分かりやすく説明するために使っている言葉です。8世紀の人々が、この技法を「刺し子」と呼んでいたという意味ではありません。

名前を少し分けてみます。「九条」は九つの条で構成された袈裟、「刺納」は刺し子縫い、「樹皮色」は樹木の皮のように見える色合い、そして「袈裟」は僧侶が身につける法衣です。黄、緑、縹、赤紫などに染めた絹の断片を組み合わせ、細かく刺し縫って作られています。

もともと袈裟には、捨てられた布を集めて作る「糞掃衣(ふんぞうえ)」という考え方があり、この袈裟もその伝統にならったものと説明されています。ただし、実際には上質な絹が使われています。

参考:宮内庁 正倉院「九条刺納樹皮色袈裟 第1号」
参考:奈良国立博物館「第75回 正倉院展」

ここで気になるのは、これが8世紀のものだということです。
日本で綿作が定着し始めるのは、ずっと後の15〜16世紀頃。その後、江戸時代に入る17世紀頃から、地域差はありながらも綿作や木綿織が各地へ広がっていきます。正倉院の刺納は、それより700年以上も前のものです。
木綿が庶民の身近な布になるはるか前から、布を組み合わせ、針と糸で細かく刺し縫う技術があった。

では、この「刺納」を刺し子と呼んでもよいのでしょうか。

その技術は、さらに前にもあったのか

私が刺し子を調べるうえで何度も読み返している徳永幾久氏『刺し子の研究』にも、この「刺納」が登場します。

徳永氏は、刺し技法を辿っていくと、飛鳥時代(592〜710年)の「刺納」「刺し縫い」「纏い縫い」に行き着くと書いています。そして、これらを今でいう綴り刺し(つづりざし)、つまり布をつないだり重ねたりしながら、針目で刺し留めていく技術として捉えています。正倉院に残る刺納衣も、その一例として挙げています。

ここで面白いのは、徳永氏が「刺し子」という言葉の初出を探しているのではなく、針と糸が布に何をしているのかを見ているところです。

布をつなぐ。重ねる。何度も針を通して留める。呼び名は違っていても、そこにある仕事を見ると、今の私たちが刺し子で行っていることと重なる部分があります。

だからといって、飛鳥時代の刺納から東北地方の刺し子まで、同じ技術が途切れることなく受け継がれてきたと分かっているわけではありません。徳永氏も、古代の刺しと後世の刺し子が年月を越えてどう関わったのかは別として、技術として見れば古代まで遡ることができると考えています。

私は、この見方にとても納得がいきます。

「刺し子」という名前があったかどうかではなく、その時代の人が布にどんな針仕事をしていたのか。そこを見ると、刺し子の歴史は、私が最初に思っていたよりずっと遠くまで広がっていくように感じます。

布を重ねて刺す。そんな衣服は、ずっと後にも

時代を進めて、明治から昭和初期頃の暮らしを見てみます。
柳田國男氏は『木綿以前の事』で、羽後、現在の秋田県由利地方の山村を歩いたとき、小学校の子どもたちが着ていた上着について書いています。それは、木綿の古切れを何枚も合わせ、「雑巾よりも細かく堅く刺して」作られたものでした。さらに柳田氏は、その前には、着古した麻布を刺して作っていたのではないかと考えています。
使い古した布を捨てず、重ねたり継いだりしながら使い続けるという点では、現在「襤褸(ぼろ)」と呼ばれている衣服にも通じるものがあります。ただし、柳田氏自身がこの上着を「襤褸」と呼んでいるわけではないので、ここでは同じものだとは断定しません。

正倉院の袈裟と、由利地方の子どもたちが着ていた上着。時代も場所も、使う人も目的も違います。もちろん、この二つの間に一本の伝承の線が確認されているわけでもありません。それでも、どちらにも「布を重ね、針を何度も通して留める」という仕事があります。

つまり、布を重ね、つなぎ、刺して使うという工夫は、一つの時代、一つの場所だけにあったものではないようです。

傷んだ布を、どう繕えばいいのか。どうすれば、もう少し長く使えるのか。時代が違っても、土地が違っても、人々はそれぞれの暮らしの中で考えてきたのではないでしょうか。

木綿が当たり前になる前から

日本で綿作が定着し始めるのは15〜16世紀頃で、その後、江戸時代に入ると木綿の生産や流通が少しずつ広がっていきました。それより前、人々が使っていたのは麻だけではありません。柳田國男氏の『木綿以前の事』を読むと、藤、葛、楮など、さまざまな植物の繊維から布が作られていたことが分かります。麻衣や藤衣を何枚も重ねて寒さをしのいだ可能性についても、柳田氏は考察しています。

木綿は、後の刺し子に大きな影響を与えた素材です。柔らかく、麻より暖かい。古着や古布が流通するようになれば、重ねたり補修したりする材料にもなります。でも、木綿が広がってから初めて、人が布を重ね、つなぎ、刺したわけではありません。

8世紀の正倉院には、奈良国立博物館が現代の説明として「刺し子縫い」と表現する実物が残っています。繰り返しになりますが、これは8世紀当時に「刺し子」という呼び名が使われていたことを示すものではありません。 一方、徳永氏はさらに飛鳥時代まで刺し技法を遡って考えています。
そう考えると、木綿の歴史よりも、布に針を通してきた歴史の方がずっと長いことが見えてきます。

私たちは何を「刺し子」と呼んでいるのか

ここまで資料を辿って、最初の質問に戻ります。

「刺し子は、いつ始まったのですか?」

資料を読めば読むほど、「刺し子はここから始まった」と一つの年代や場所に決めることの方が難しいと感じるようになりました。
古代には、布を組み合わせ、刺し縫う技術がありました。木綿が広がる前にも、人々は身近にある素材で布を作り、重ねながら暮らしていました。そして、ずっと後の時代にも、古い布を何枚も重ね、細かく刺して丈夫な衣服にする人たちがいました。

ここまで見てきて、私はこう思います。

人は古くから、布を重ね、刺し縫い、補強し、つなぎ、再生してきた。

そして、そうした針仕事は、すべて同じ名前で呼ばれていたわけではなかったのでしょう。時代や土地によって呼び方も、用途も、使う布も違っていた。その中の一部が、後になって「刺し子」という言葉で呼ばれるようになった可能性がある。

これが、今のところのcanohaの見解です。

もしかすると「刺し子」という言葉は、一つの技法だけの名前ではなく、長い時間の中で、人々が布に針を通してきた、いくつもの営みを包む言葉なのかもしれません。

そして、もう一つ気になることがあります。
布をつなぐだけなら。破れを塞ぐだけなら。丈夫にするだけなら。針目は、目立たなくてもよかったはずです。それなのに、刺し子にはいつしか文様が登場してきました。

繕うだけなら、文様はいらないはずだった。

次回は、その「文様」がどこからやってきたのかを考えてみたいと思います。

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