刺し子ジャーナル|文献からたどる刺し子
第一弾|布をめぐる10の問い

第6回|同じ日本でも、着られるものは同じではなかった。

前回、津軽では木綿の衣服を自由に着ることのできない時代があったことを見てきました。木綿は暖かい。けれど、自分たちの土地では十分に作れない。外から買えばお金がかかる。そして津軽領では、農村部の人々に木綿衣服の着用を抑える決まりまでありました。

では、これは津軽だけの特別な話だったのでしょうか。ほかの土地に暮らす人々は、好きな布で、好きな衣服を作り、自由に着ることができたのでしょうか。資料を辿っていくと、どうやらそうではありません。同じ時代、同じ日本に暮らしていても、どこに暮らしているのか、どのような立場の人なのか、そして家にどれだけの経済的な余裕があるのかによって、手に入る布も、着ることを許される素材も、実際の装いも違っていました。

今回は、衣服から江戸時代の社会を少し覗いてみたいと思います。

日本をまとめる幕府と、それぞれの土地を治める大名

江戸時代の少し前まで遡ってみます。15世紀後半から続いた戦国時代、日本各地では大名たちがそれぞれの土地を支配し、争いを繰り返していました。その後、織田信長、豊臣秀吉によって統一が進み、1603年には徳川家康が征夷大将軍となります。こうして徳川幕府を中心とする政治の仕組みが作られ、戦国時代とは大きく違う、長期的な秩序が形づくられていきました。

ただし、幕府が現在の国の政府のように、日本全国のすべてを直接治めていたわけではありません。幕府自身が治める土地がある一方で、大名が治める土地がありました。幕府が広く通用する決まりを出し、それぞれの大名も、自分が治める土地や家臣に対して決まりを出します。

仕組みそのものは現在とはまったく違いますが、イメージするだけなら、国の法律や政策があり、その一方で都道府県、市や区にも条例や地域ごとの決まりがあるのと少し似ています。ただし、江戸時代の大名は現在の知事などよりはるかに大きな権限を持ち、家臣を抱え、財政を動かし、その土地の人々の暮らしにも直接関わっていました。だから、日本全体をまとめる大きな秩序ができても、暮らしを細かく見ていけば、住む土地によって決まりが違う。前回見た津軽の木綿規制も、その一つです。

ここで、「津軽藩」「中津藩」という呼び方について少し補足しておきます。現在では江戸時代の大名領を「○○藩」と呼ぶのが一般的ですが、幕府が日本を最初から「津軽藩」「中津藩」といった正式な行政区画に分けていたわけではありません。当時の文書では、大名が支配する土地を「領知」「知行」「領」などと表し、家臣たちを指す「家中」、農村部を指す「在方」など、場面によってさまざまな言葉が使われています。「藩」という言葉は江戸時代にもありましたが、「○○藩」が公式な行政名称として使われるようになるのは明治維新期です。この連載では、現在の読者に分かりやすいよう「津軽藩」「中津藩」といった呼び方も使います。

さて、幕府と、それぞれの土地を治める側との関係が見えてくると、前回の「津軽では、なぜ木綿を自由に着られなかったのか」という話も、少し違って見えてきます。

でもその前に、そもそも絹や麻、木綿は、どんな布だったのでしょう。

絹、麻、そして少し遅れて木綿

江戸時代の衣服を調べていると、絹、麻、木綿という素材が何度も出てきます。ただ、この三つは同じ頃から日本で使われ始めたわけではありません。

絹や麻は、木綿よりずっと古くから日本にありました。武部善人氏『綿と木綿の歴史』を見ると、古代にはすでに絹が使われ、植物から作る布にも、麻や苧、葛、さらに樹皮の繊維を利用したものがあったことが分かります。

絹は植物から作る布ではありません。蚕という虫が作る繭から糸を取ります。桑の葉を食べさせて蚕を育て、蚕が作った繭を集める。その繭を煮て糸口を見つけ、非常に細い数本の繭糸を合わせながら一本の生糸にしていきます。それを染め、織って、ようやく絹の反物になります。
蚕を育てるところから始まり、繭から細い糸を引き出し、さらに布にするまで多くの手がかかる。そのうえ、絹には独特の光沢としなやかさがあります。上質な絹織物は高価な商品となり、衣服の中でも価値の高い素材として扱われました。

一方、木綿には少し変わった歴史があります。
日本に綿の種がやってきた最初期の記録は799年、延暦18年です。『類聚国史』などに伝わる記事では、三河国――現在の愛知県西尾市付近――に漂着した異国の人物が綿の種を持っており、翌年、その種が紀伊、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐、太宰府などへ分けられて栽培が試みられたとされています。

ところが、このときの綿は日本に根付きませんでした。なぜなのか。理由を一つに断定することはできませんが、気候や土地の条件が合わない地域も多く、栽培にはかなり苦労したようです。当時はもちろん、現在のように栽培技術や品種改良、肥料や流通の仕組みが整っていたわけでもありません。結果として、このときの綿作は長く続かず、やがて途絶えていきました。

それから長い時間が経ち、15~16世紀頃になると、中国や朝鮮との交易などを通して綿や綿布が再び日本へ入ってきます。「再び」と書くのは、799年の伝来があったからです。

そして今回は、一度目とは事情が違いました。綿の種が入ってくるだけでなく、綿布そのものも交易によって運ばれてきます。さらに国内でも少しずつ綿を育てる地域が現れ、木綿を作る技術が蓄積されていきました。

とはいえ、15世紀末から16世紀初めは、国内で商業的な綿作がようやく始まった段階です。産地はまだ限られ、綿はどこでも簡単に育つ作物ではありません。栽培には肥料も必要でした。
しかも、畑から採った綿が、そのまま着物になるわけでもありません。種を除き、綿をほぐし、糸に紡ぎ、その糸を機にかけて織り、ようやく木綿の布になります。栽培する人、糸にする人、織る人、そして出来上がった布を運ぶ商い。その仕組みが広がらなければ、たくさんの人が日常的に木綿を着ることはできません。
ですから、再び日本に入ってきた木綿も、最初から現在のような身近な布だったわけではありません。『木綿口伝』では、海外から入ってくる綿布は当初、一部の支配者層などに珍重される高価な品だったと説明されています。やがて国内で綿を育て、糸を作り、布を織ることができるようになるにつれて、木綿は特別な品から、庶民の暮らしにも使われる布へ変わっていきます。

そしてちょうどその頃、日本では徳川幕府による新しい秩序も作られていました。木綿が広がっていくことと、「誰が何を着てよいのか」という決まりが作られていくこと。この二つが同じ時代に重なっていきます。

1628年。「百姓は、何を着てよいのか」

1628年、寛永5年。「百姓着物之事(ひゃくしょうきもののこと)」という法令が残っています。

この法令は『徳川禁令考』に収められています。『徳川禁令考』とは、江戸時代に一冊の法典として作られたものではなく、明治時代に司法省が、江戸幕府のさまざまな法令や法制史料を集めて整理した大規模な史料集です。江戸時代の幕府法を調べるための基本資料の一つ、と考えると分かりやすいと思います。
そこに収録された1628年2月9日の「百姓着物之事」には、「百姓分之者ハ布・木綿たるべし」という内容があります。つまり百姓については、麻などの「布」と木綿を用いるように定めています。一方で、名主など一定の立場にある者や百姓の女房には、紬まで認める記述があります。

なぜ、着る布まで幕府が決めたのでしょう。

法令そのものが、理由を長く説明しているわけではありません。ただ、当時の衣服は単なる防寒具ではなく、「その人がどのような立場にいるのか」を外から見せるものでもありました。高価な絹や紬を誰でも自由に着るのではなく、立場によって使える素材を分ける。そして農村では、華美な衣服などへの出費を抑え、農業を続け、年貢を納める暮らしを守らせる。そうした身分秩序と倹約の考えが重なっていたと考えられています。
つまり「百姓なのだから、この範囲の衣服を着なさい」ということです。今の私たちにとって衣服は、自分で選ぶものです。でも当時は、何を身につけているかが、その人の立場を示す社会でもありました。
「百姓着物之事」は、『徳川禁令考』前集第五帙、第51章「郊野専耕者諸法度」p.230に収録されています。国立国会図書館のレファレンス協同データベースでも、その収録箇所を確認できます。

参考:国立国会図書館 レファレンス協同データベース「寛永5年の『郷村諸法度』が見たい」

1642年。衣服だけでなく、暮らしへ

14年後の1642年、寛永19年5月24日には「郷村諸法度」として伝わる幕府法令が出されました。東京都公文書館『東京市史稿 産業篇第4』でも、この法令を確認できます。

弘前市立弘前図書館が公開している『新編弘前市史 通史編3(近世2)』では、この「郷村諸法度」について、庄屋は絹・紬・布(麻布)・木綿、脇百姓は布・木綿と整理されています。ここでいう「脇百姓」は、名主や本百姓より低い階層の農民を指します。つまり、同じ村に暮らす人々でも、村政を担う庄屋と脇百姓では、着用できる素材の範囲が同じではありませんでした。
さらに、この頃は「寛永の飢饉」と呼ばれる深刻な飢饉が各地を襲い、農村の疲弊が大きな問題になっていました。幕府にとって農村が弱れば、食料生産だけでなく年貢の収納にも影響します。華美な消費を抑え、農業を続けられる状態を維持することも、こうした農村政策の重要な目的の一つでした。
衣服の素材まで細かく決めることも、そうした時代背景と切り離して考えることはできません。

この法令については、『徳川禁令考』などの法令史料のほか、東京都公文書館『東京市史稿』、弘前市立弘前図書館『新編弘前市史』で確認しています。

参考:東京都公文書館「東京市史稿 産業篇第4」
参考:弘前市立弘前図書館『新編弘前市史 通史編3(近世2)』

服を見れば、その人が誰なのかが分かった

ここまで史料を読んでいると、「百姓」「庄屋」「足軽」など、さまざまな呼び名が出てきます。当時の史料に登場する人々を、衣服との関係が分かるように整理してみます。

史料に出てくる呼び名どんな人だったのか衣服では何が違ったのか
大名・領主土地と家臣を治める側領内や家臣へ衣服の決まりを出す側でもあった
上士武士の中でも上位の家格。中津などで使われた呼び名中津では外出時に袴を着け、双刀を帯びることが基本だった
下士同じ武士でも上士より下の家格中津では近所なら袴を着けないこともあり、一刀や丸腰の場合もあった
若党武家に仕え、身の回りの仕事や警護などをした人着てよい絹織物の種類などに決まりがあった
足軽警備や軍事などを担った下級の武家奉公人上の立場の奉公人より、使える素材が限られた
中間・小者武家で雑務などを担った奉公人麻や木綿を用いるよう求められた例がある
名主・庄屋村をまとめ、年貢や命令の取り次ぎを担った村役人一般の百姓より紬や絹を認められる例があった
百姓分之者1628年の法令に出てくる百姓についての呼び方布・木綿を用いることが定められた
脇百姓1642年「郷村諸法度」に出てくる呼び方弘前市史では、布・木綿と整理されている
町家の主人・職人町で商売や仕事をする人々晴れ着や仕事着など、商売・職業によって装いも違った

※全国どこでも、この呼び名や関係がまったく同じだったという意味ではありません。この表は『徳川禁令考』、「郷村諸法度」についての公的資料、福沢諭吉『旧藩情』、菊池貴一郎『江戸府内絵本風俗往来』など、今回確認した史料をもとに整理しています。

こうして並べると、衣服は今よりずっと「その人が誰なのか」を知らせるものだったことが見えてきます。同じ武士でも、袴を着ける人と着けない人がいる。刀の差し方も違う。着てよい素材も違う。同じ村でも、庄屋とそれ以外の百姓では許される素材が違うことがある。つまり、身につけているものを見れば、その人のおおよその立場が分かったのです。

さらに面白い記録があります。菊池貴一郎『江戸府内絵本風俗往来』には、幕末頃の江戸に集まった各地の武士について、髪の結い方、刀の飾り、衣類の縞や色、着物の丈、羽織の紐の結び方、笠や頭巾などに、それぞれの土地の特徴があったと書かれています。そして、その姿を見れば「西国のどの家の侍なのか」「北国の誰の家臣なのか」が一見して分かるほどだった、といいます。

今なら服装を見て、その人が青森から来たのか、山形から来たのかを当てるのは難しいでしょう。でも当時は、身分だけでなく、どこの土地の人なのかまで衣服に表れていたことがあったのです。衣服は、防寒や装飾だけではなく、その人の「名札」のような役割も持っていたのかもしれません。

なぜ「絹を着てよいか」が、それほど重要だったのか

ここで、最初に見た絹の作り方を思い出してみます。桑を育て、蚕を飼い、繭を作らせ、その細い糸を引き出して生糸にし、染め、織る。絹は多くの手間がかかる、価値の高い素材でした。

しかも江戸時代には、絹そのものが存在しなかったわけではありません。国内では養蚕や絹織物生産が行われ、町には絹の商品も流通していました。だからこそ、「絹がないから百姓は着なかった」という話ではありません。そこに絹があっても、自分の立場では着てはいけない、ということがあったのです。

福沢諭吉が1877年に記した『旧藩情』を見ると、中津では同じ武士でも上士と下士で暮らしが違いました。上士は外出するとき袴を着け双刀を帯びましたが、下士は近所なら袴を着けないこともあり、一刀、時には丸腰の場合もありました。

また福沢は、中津で藩政改革の一環として藩士一般に倹約が命じられた際、衣服にも身分別の制限が設けられたと記しています。そこでは「ある身分には綿服」「ある身分には紬まで」「ある身分には羽二重まで」というように、使える素材が分けられていました。ただし福沢は、この衣服制限が何年に出された命令なのかを本文では記していません。そのため、ここでは特定の年の「倹約令」としてではなく、中津の藩政下で行われた衣服制限の一例として扱います。

一方で、下士の家では女性が糸を紡ぎ、木綿を織り、それを綿や銭と交換して家計を支えていました。武士だから豊か、百姓だから貧しい、と単純には分けられません。社会的な立場と、実際の家計は別の問題だったのです。

決まりがある。それでも、きれいなものを着たい

この話を調べていて、私が一番面白いと思ったのが、徳永幾久氏『刺し子の研究』に出てくる山形県庄内地方の「かくれ刺し」です。徳永氏が採録した口伝によれば、藩政時代、庶民の衣服には色や文様についても制限があったといいます。

そこで登場するのが「手前織」という言葉です。『刺し子の研究』でいう手前織は、外から買ってきた反物ではなく、自分たちの家や地域で織った布、自家製の織物と考えると分かりやすいでしょう。徳永氏は別の箇所でも「手前織」と移入された木綿を分けて記しています。

その手前織の木綿に白い木綿糸で細かな文様を刺し、布を糸ごと藍に浸します。白かった刺し糸まで藍色になるため、最初は文様が目立ちません。ところが、その着物を着て何度も洗っているうちに、糸に染まった藍が少しずつ薄くなり、隠れていた白い刺し文様が徐々に浮かび上がってくる。それが「かくれ刺し」という名前の由来だと伝えられています。

もちろん、これは徳永氏が採録した口伝です。当時の法令に「こうして文様を隠した」と書かれているわけではありません。それでも、この話を知ると、衣服規制が急に人の暮らしの話になります。自由に派手な文様を入れることはできない。それでも、きれいなものを着たい。だから最初は見えないように刺し、着ているうちに少しずつ文様が現れてくる。なんとも面白い工夫です。

そして「見えないところで楽しむ」という発想は、かくれ刺しだけではありませんでした。江戸の装いには、表側は控えめにしながら、羽織などの裏側に意匠を凝らす楽しみもありました。刺し子にも、とても分かりやすい実物が残っています。

東京国立博物館所蔵の江戸時代19世紀の「火消半纏 紺木綿刺子地人物模様」です。表は木綿地を刺し子にして実用的に仕立てられていますが、裏側には派手な人物模様が描かれています。鎮火したあとには、その裏側の絵を見せて市中を歩いたと伝えられています。

参考:ジャパンサーチ「火消半纏 紺木綿刺子地人物模様」

表は、火事場で身体を守るための刺し子。裏には、自分たちの誇りや遊び心を込めた華やかな絵。かくれ刺しと火消半纏は、もちろん同じ背景から生まれたものではありません。それでも私は、どちらにも「決まりや実用の中で、できる範囲のお洒落を楽しむ」という、人の気持ちが見えるように思います。

何を着てよいのかには決まりがある。仕事に適した衣服も必要です。それでも、できることを探し、見えないところまで楽しむ。きれいなものを着たい、自分らしくありたいという気持ちは、今も昔も、あまり変わらないのかもしれません。

一枚の衣服の向こうに、その人の暮らしがある

江戸時代の衣服を見てきて分かったのは、「何を着ていたか」を一つの理由では説明できないということでした。どんな立場の人なのか。その土地で何が作れるのか。幕府や領主から何を着ることを許されているのか。実際にその布を買えるのか。そして何の仕事をしているのか。

津軽では木綿が手に入りにくく、さらに農村部では着用を抑える決まりがありました。中津では同じ武士の中でも家格によって装いや使える素材が違いました。江戸の町では、衣服から仕事や出身地まで分かることがありました。そして庄内には、衣服規制の中で生まれたと伝えられる「かくれ刺し」が残っています。

一枚の衣服の向こうには、その人が暮らした土地、立場、家計、そして「それでもこう着たい」という気持ちまで隠れているのかもしれません。

そして、ここまで来ると、もう一つ気になることがあります。今回見てきた衣服規制は、主に江戸時代の話です。でも、江戸時代より前にも人は布を着ていました。麻も、苧も、葛も、樹皮から作った布も、絹もありました。その布も、着れば擦れ、破れます。寒ければ重ねたくなり、弱いところは丈夫にしたくなります。

では、木綿が庶民の衣服として広がる前、人々は布を補強したり、重ねたり、縫い留めたりしていなかったのでしょうか。そして、もしそうした技術がすでにあったのなら――その人たちは、それを「刺し子」と呼んでいたのでしょうか。

次回は、「『刺し子』という名前がつく前、布を刺す技術はなかったのか。」

「刺し子」という名前と「布を刺す」という技術をいったん分けて、さらに古い時代へ遡ってみたいと思います。

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