第一弾|布をめぐる10の問い
第9回|服は、いつから「直すもの」ではなく「買うもの」になったのか。
服が欲しくなったらお店へ行く、スマホで気に入ったものを選ぶ。今では、ごく普通のことです。
服が破れたり、擦り切れたりしたときも、直すという選択肢はあるけれど、新しいものを買う人の方が多いかもしれません。私自身、刺し子やお繕いに日々触れているので、「まだ着られるのに」と思うことはよくありますが、それでも服は簡単に買えるものになりました。
でも、第8回まで古い布の暮らしを辿ってきて、一つ疑問が残りました。
破れたら繕う。薄くなれば当て布をする。着られなくなれば別のものへ作り替える。布にまだ役目が残っている限り、できるだけ使い続ける。
そんな暮らしが長くあったのに、服は、いつから「直すもの」ではなく「買うもの」になったのでしょう。
なんとなく答えは想像できます。近代化して工場ができる。洋服が広がる。大量生産が始まる。そして人々は、自分で服を作ったり直したりするのではなく、お店で買うようになる。私も最初は、そんな流れを想像していました。
ところが資料を辿っていくと、最初に出てきたのは「服を買う」ことではありませんでした。
明治の家計に、服が出てこない
横山源之助氏の『日本之下層社会』には、明治後期の都市で暮らす人々の家計が出てきます。米、薪、家賃など、その日に必要なものが細かく記録される一方で、例示された生計費の中に衣服費が含まれていない場合があることを横山氏自身が記しています。
もちろん、これだけを見て「当時の人は服を買わなかった」と言うことはできません。衣服費が別に計上されていた可能性もありますし、地域や家計によって事情は違います。
では、服はどうしていたのでしょう。この本を横断して読んでいくと、古着や古道具、質屋、足袋縫い、和服裁縫など、今とは少し違う衣服との付き合い方が見えてきます。衣服は着るだけでなく、古着として売ることもある。家計が苦しくなれば質に入れることもある。家の中では、足袋などを縫う内職も行われていました。
第1回でも見てきたように、布や衣服には、着ている間だけではない価値が残っていました。新しい服を買うことだけが、衣服を手に入れる方法ではなかったのです。
では、近代的な工場ができれば、そこから「買う服」の時代が始まるのでしょうか。今度は、布を作る側を見てみます。
最初に工場へ移ったのは、「服」ではなかった
明治になると、日本の繊維産業は大きく変わっていきます。『職工事情 第1巻』の解説では、日清戦争前後に紡績業が近代産業として確立し、機械化と大量生産が進んでいったことが整理されています。
福井貞子氏の『木綿口伝』にも、その変化が地域の暮らしから描かれています。明治21年(1888)から明治26年(1893)にかけて、出雲の平田町では手織綿布の製造高は同じ4,300反でした。ところが、その代価は1,800円から1,000円へ下がったと記されています。その後は機械捺染の着尺など、安価な商品も出回るようになりました。さらに明治末期から昭和初期にかけて、久留米、伊予、備後絣でも力織機による大量生産が進んでいきます。
ここまで読むと、いよいよ「大量生産された服を買う時代」へ向かっているように見えます。でも、ここで一つ分けて考える必要があります。
工場で作られるようになったのは、まず糸や布でした。
家で綿を紡ぎ、家で機を織る。そうした仕事の一部が、少しずつ家の外へ移っていったのです。けれども、布が工場で作られるようになったからといって、その布がすべて完成した服になって店に並んでいたわけではありません。布を買って、家で服を作ることもできます。
では洋服が広がれば、今度こそ「買う服」の時代になるのでしょうか。そこで、1927(昭和2)年の一冊を開いてみます。
洋服も、まだ「作るもの」だった
川島裁縫女學校編『現代和洋裁縫全書―初歩から奥儀まで』。この本の目次を見ると、なかなか面白いです。
和服だけではありません。ベビー服、女児服、男児服、普通シャツ、ワイシャツ、学生服、ズボン、マント、オーバーコートなど、今ならお店へ行って買うことが多い衣服が、ずらりと「作り方」として並んでいます。
しかも、この本には新しく服を作る方法だけではなく、「補綴法」という項目があります。丈や幅が足りなければ布を接ぐ。薄くなったところには、破れる前に当て布をする。破れてしまったところは繕う。古い材料をもう一度使う方法も教えています。
つまり1927年には、洋服はすでに珍しいものではなくなっていた一方で、洋服もまだ、自分たちで作り、直すものとして教えられていたのです。
考えてみれば、これはとても自然なことです。布が工場で作られるようになっても、買った布から家で服を仕立てることはできます。服の形が和服から洋服へ変わったからといって、服を作る場所まで同時に家の外へ移るわけではありません。
そして、このあと少しずつ「買う服」へ向かっていくのかと思ったら、歴史はまた違う方向へ動きます。
布がなくなれば、また作る
第二次世界大戦中から戦後にかけて、日本は深刻な物資不足に直面します。『木綿口伝』には、敗戦後の衣料不足によって、綿作や綿打ちが再び行われたことが記されています。
すでに工場で糸や布を作る時代になっていたのに、それが手に入らなくなると、再び綿を育て、綿を打ち、糸にして、布を織る暮らしが現れます。
鳥取県の農村女性の聞き取りにも、戦後の衣料不足の時期、男物のシャツやズボンに使う洋服地から、仕事着や外出着まで自分たちでまかなったという話が残っています。別の女性は、昭和20年頃、綿を栽培して糸を紡ぎ、蓬(よもぎ)で染め、息子の国民服まで織って着せたと話しています。
ここまで来ると、歴史は「手作り→工場→既製服」と、きれいな順番で進んだわけではないことがよく分かります。工場があっても、物がなければ作る。洋服になっても、自分で縫う。古着があれば、もう一度使う。
では、本当に「買う服」が暮らしの中心へ入ってくるのは、いつなのでしょう。資料をさらに先へ進めていくと、そこで初めて、これまでとは少し違う言葉が出てきました。
競って既製服を買い求めた
『木綿口伝』の後半です。福井氏は、戦中・戦後の衣料不足を経験した人々が、その後「飽衣時代」を迎えたと書いています。「飽食」ではなく、「飽衣」。着るものに不足した時代から、衣服があふれる時代へ。
昭和40年代、高度経済成長の波の中で、農山村の暮らしは急速に変わっていったと福井氏は記しています。それまで使われてきた木綿の着物や絣の布団などが化学繊維へ取り替えられ、ナイロンやテトロンの前掛けやブラウス、下着、ビニロンの合羽など、新しい素材の商品が次々と登場しました。
ビニロンとは、日本で発明され、工業化された合成繊維です。ここでいう「ビニロンの合羽」は、そのビニロンを使って作られた雨具のことです。今ではあまり耳にしない素材名ですが、当時の新しい化学繊維の一つでした。
そして、ここで初めて、人々が流行品を求め、「競って既製服を買い求めた」という記述が出てきます。明治の工場化でもなかった。洋服の普及でもなかった。戦後すぐでもなかった。
もちろん、これは福井氏が山陰の農山村を長く見てきた中での記録ですから、日本中が昭和40年のある日を境に一斉に変わった、という話ではありません。それでも、ここまで資料を辿ってきたあとにこの一文を読むと、それまでとは違う時代が始まったことを感じます。
では、同じ頃、ほかの家ではどうだったのでしょう。
お店の服が、家の中へ入ってきた
福井氏が山陰で見ていた昭和40年代。少し視野を広げて、同じ頃の日本の衣服を調べた研究を探してみました。そこで見つけたのが、1974(昭和49)年に『家政学雑誌』へ掲載された「日本の既製服の大衆化―形態を中心として 昭和33-44年」という研究です。当時、実践女子大学に所属していた鍜島康子氏が、1958(昭和33)年から1969(昭和44)年までの既製服の生産を調べています。
昭和33年といえば、福井氏が「競って既製服を買い求めた」と記した昭和40年代の少し前です。その頃から既製服の生産は大きく伸びていました。外では、出来上がった服が次々と作られるようになっていきます。
では、家の中では何が起きていたのでしょう。別の1978(昭和53)年の家政学研究を見てみると、今度は家庭で使われる時間に変化が現れていました。既製衣料が家庭へ広く入るようになる一方で、1960年頃を境に、裁縫や編物に使う時間が大きく減っていったというのです。
これまで家の中で服を作るために使っていた時間が、少しずつ減っていく。その一方で、お店には出来上がった服が増えていく。福井氏が山陰で見た「既製服を買い求める人々」と、別の研究に残された既製服生産の増加、そして家庭で裁縫をする時間の減少。違う資料を重ねてみると、同じ時代の変化が少しずつつながってきます。
昭和30年代末から40年代にかけて、「服を家で作る」から「出来上がった服を買う」へ、暮らしの重心が大きく動いていたようです。ここで、もう一度最初の問いを思い出します。服は、いつから「直すもの」ではなく「買うもの」になったのでしょう。「買う」が広がった時期は、だいぶ見えてきました。では、「直す」はどうなったのでしょう。
買うようになっても、まだ直していた
1975年に発表された家庭裁縫の研究では、広島、東京、岩手の三地域について、1967(昭和42)年と1972(昭和47)年の家庭での衣服作りが比較されています。
調査を見ると、和服や寝具などを家庭で作る割合は減っていました。ここまでは、予想した通りです。ところが、繕いは三地域すべてで頻繁に行われていました。
服は、すでに買うものになり始めている。でも、傷んだらまだ直している。この記録には私自身も「ああ、分かるな」と思うところがあります。私が小学生だった昭和後半、学校ではミシンの使い方を習いましたし、ボタンの付け方も習いました。服が少し傷んだからといって、すぐに新しいものへ買い替えるというより、ボタンを付け直したり、直せるところは直したりしながら使っていた記憶があります。ちなみに洋服は買ってもらった記憶はほとんどなく、親戚のお下がりがほとんどでした。
完成した服は、もうお店で買っている。でも、自分で針を持つこともまだ身近にある。1972年の調査で「繕い」が残っていたという話は、私にとっては昔の統計だけの話ではありません。少し時代は後になりますが、自分が子どもだった頃の暮らしともつながっています。
つまり、「服を作らなくなった」と「服を直さなくなった」は、同じ変化ではありませんでした。「買う服」が広がったからといって、「直す」がその瞬間に消えたわけではなかったのです。
気がつけば、服は「買うもの」になっていた
最初の問いを、もう一度考えてみます。服は、いつから「直すもの」ではなく「買うもの」になったのか。
明治になると、まず糸や布を作る場所が家から工場へ移っていきました。それでも1927年には、洋服を家で作り、破れれば直す技術が教えられています。戦争と戦後の衣料不足になれば、再び綿を育て、糸を紡ぎ、手元にある材料から服を作りました。そして昭和30年代末から40年代になると、既製服の生産が増え、化学繊維の商品が暮らしに入り、家庭で服を作る時間が減っていきます。
どうやら、この昭和30年代末から40年代あたりに、「服を家で作る」から「出来上がった服を買う」へ、暮らしの重心が大きく移っていったようです。でも、買うようになっても、まだ直していた。
ここまで資料を読んでくると、その感じは、私自身の記憶や、母や親戚を通して見てきた暮らしとも重なります。家で一から服を作ることは少なくなっている。でも、ミシンは家にある。ボタンが取れれば付ける。裾を直す。少しくらいの傷みなら手を入れて、また着る。お下がりも、ごく普通に回ってくる。買うことと直すことが、同じ暮らしの中に普通に並んでいた時期がありました。
振り返ってみれば、「作る」「買う」「直す」は、どれか一つから次の一つへ、ある日きれいに入れ替わったのではないのでしょう。最初に、糸や布を作る仕事が家の外へ移った。次に、服そのものを家で作ることが減っていった。それでも、買った服を直して着る暮らしは残っていた。そして、その「直す」も少しずつ日常から遠ざかっていった。気がつけば、服は「作るもの」より「買うもの」になっていた。
そう考えると、「昔の人は物を大切にしたけれど、今の人はすぐ捨てる」というだけでは説明できないことにも気づきます。人の心だけが変わったわけではありません。布の作られ方が変わり、服の作られ方が変わり、売られる場所が変わった。新しい素材が現れ、家で針を持つ時間も変わった。服を取り巻く仕組みそのものが変わった結果、私たちと服との付き合い方も変わっていったのではないでしょうか。
第1回では、布を捨てられなかった理由を追いました。そこからずっと布を追いかけてきて、第9回で見えてきたのは、今度は逆に、布を手放しやすくなっていく入口でした。
ところが、話はここで終わりません。直さなくても困らない時代になったはずなのに、いま、もう一度針を持つ人たちがいます。昔のように破れを目立たなく直すだけではなく、あえて違う色の糸を使い、継ぎ当てを見せ、傷んだ場所を隠さずにその跡を残しながら直していく。Visible Mendingや、刺し子のお繕いです。
一度は暮らしの中心から離れていったはずの「直す」が、今度は少し違う姿で戻ってきています。必要に迫られて直していた時代から、直さなくてもいいのに、あえて直す時代へ。なぜなのでしょう。
そして今、なぜ私たちはまた繕っているのか。
次回は、ようやく私たちの今の暮らしまで戻ってきます。
参考資料・リンク
鍜島康子「日本の既製服の大衆化―形態を中心として 昭和33-44年」『家政学雑誌』25巻4号、1974年。
J-STAGE「日本の既製服の大衆化」
石渡すみ江・清水房・大山サカエ「家庭科教育内容に関する研究(第11報)―広島・東京・岩手の3都県における家庭内被服製作の実態調査」『家政学雑誌』26巻6号、1975年。
J-STAGE「家庭科教育内容に関する研究(第11報)」
阿部和子ほか「家事労働の現状と動向(第3報)―衣生活に関する家事労働」『家政学雑誌』29巻8号、1978年。
刺し子ジャーナル|文献からたどる刺し子
第一弾|布をめぐる10の問い