刺し子ジャーナル|文献からたどる刺し子
第一弾|布をめぐる10の問い

第5回|寒い土地では、布をどう重ねたのか。

寒ければ、厚い服を着る。今なら、それほど難しいことではありません。暖かなウールコートやダウンジャケットを選ぶこともできますし、寒ければ、その上にもう一枚着ればいい。けれども、昔の暮らしではどうだったのでしょう。

第1回でも見てきたように、布そのものを作るには大変な手間がかかりました。なかでも東北の寒冷地では綿の栽培が難しく、木綿は簡単には手に入りませんでした。田中忠三郎氏も『図説 みちのくの古布の世界』で、青森では麻を栽培し、糸にし、布を織って衣服を作っていたことを記しています。

手元にあるのは、自分たちで作ることのできる麻布。寒い土地で、人々はその布をどう使ったのでしょう。

麻布一枚では、寒さをしのぎにくかった

田中氏は、青森の麻布について、織目が粗く、夏はよくても冬には寒気が肌を刺したと記しています。
当時の麻布には、糸と糸の間に隙間がありました。夏なら風が通って涼しい。でも冬には、その隙間から冷たい空気が入ってきます。丈夫で仕事着に適した麻布にも、防寒という点では弱点がありました。だからといって、すぐに木綿を使えたわけではありません。木綿が十分に手に入らない暮らしでは、手元にある布を重ねて厚みを作る工夫もありました。徳永幾久氏『刺し子の研究』には、麻地の裏に古い麻布を重ねた仕事着や、古くなった布を何枚も重ね、刺し縫いしながら一枚の厚い布として使う例が記録されています。

つまり、「布を重ねる」という知恵は、木綿が豊富になってから始まったものではありません。そこへ、外から運ばれてくる木綿糸や木綿の古布が少しずつ加わっていきます。そして同じ青森でも、その使い方は地域によって違いました。

南部では、麻布の裏に木綿を重ねた

ここでいう南部地方は、現在の青森県南部町だけを指す言葉ではありません。おおまかには青森県東部から南東部、八戸市を中心に、三戸・五戸・上北方面などへ広がる旧南部領の地域です。

この地域に残された菱刺しの衣服には、分かりやすい特徴があります。表には藍で浅葱色(あさぎいろ)に染めた麻布。その裏に古手木綿(ふるてもめん)を重ね、二枚を木綿糸で細かく刺し綴る(さしつづる)のです。
「刺し綴る」というと少し分かりにくいのですが、布の端だけを縫い合わせるのではありません。重ねた布の面全体に針を通し、二枚をずれないように留めながら、同時に模様も作っていきます。

では、なぜ麻布は浅葱色だったのでしょう。
田中氏によれば、明治初期まで、町から離れた地域では自分たちの家で藍染めをすることもありました。天然の藍染めは、染料を水に溶かして一度染めれば終わり、というものではありません。藍を染められる状態に整え、布を浸し、引き上げて空気に触れさせることで青く発色させます。より濃い色にするには、この工程を何度も繰り返します。

ところが田中氏は、藍を「生きもの」と表現し、一度に大量の布を染めることはできなかったと記しています。家庭で用意できる藍にも限りがあります。一枚の布を何度も染めて濃紺にするのではなく、浅葱色の段階で止めれば、それだけ藍への負担も少なくなります。田中氏のいう「藍を弱めないように淡く染めていた」とは、こうした事情を指しています。

紺屋へ染めに出す方法もありましたが、当然、染賃がかかります。実際、大正末期から昭和初期には、浅葱色に麻布一反を染めるだけでも農家にとって大きな負担だったことが記録されています。つまり、浅葱色には、限られた藍を使うことや染めにかかる費用という、暮らしの現実がありました。

ただし、それだけではありません。土地の年配の女性たちは田中氏に、「浅葱色は美しくて、菱刺しが目立つからだ」と語っています。できるだけ少ない材料で暮らすことと、きれいなものを身につけたいと思うこと。その二つは、決して相反するものではなかったのでしょう。

そして麻布の裏に重ねられた古手木綿とは、新しい反物ではなく、すでに衣服などとして使われた木綿です。いわゆる古布(こふ)のうち、木綿の古着や使い古された布を指します。新品の木綿が滅多に手に入らない土地では、古くなった木綿でさえ貴重でした。

股引(ももひき)、この地域で「たっつけ」と呼ばれた脚を覆う仕事着にも、麻布の裏へ古手木綿を重ねたものがあります。畑や山で働けば、脚は何度も曲げ伸ばしをし、草木や地面、道具に触れて布がこすれます。寒さだけでなく、摩耗から身体と衣服を守る必要もありました。
麻布の裏に木綿の古布を重ね、細かな針目で一体化する。保温、補強、そして装飾。一つの針仕事に、いくつもの役割がありました。
その後も綿の伝来や栽培についてはいくつもの記録や説があり、国内で綿作が広がっていくのは、ずっと後の15〜16世紀、戦国時代の頃になります。つまり、

木綿が日本へ伝わったこと。
国内で栽培されるようになったこと。
そして、庶民が日々の衣服として木綿を使えるようになったこと。

これは、すべて同じ時期ではありません。地域による差もありました。
瀬川清子氏の『きもの』には、秋田県側では明治の半ば頃(1890年前後)まで、マダ布が盛んに作られていた地域があったことが記されています。村の女性たちはマダの皮を手に入れ、糸にし、三反、五反と布を織りためていました。そして「布買い」が村へ来ると、その布を売って現金に換えます。そのお金で買ったものの一つが、木綿切れでした。
自分たちで布を作っているのに、その布を売って、別の布である木綿を買う。少し不思議にも見えます。でも、この例を見ると、彼女たちは単に「布を買う人」ではありません。

自分たちの手で作ったマダ布を売る。そこで得たお金で、必要な木綿切れを買う。布を作ることと、布を買うことが、家の暮らしの中でつながっていたことが分かります。そして瀬川氏は、木綿切れを買えることを女性たちが喜んだという話も残しています。少なくともこの地域、この時代では、木綿は今のように「欲しいときに、好きなだけ買える布」ではなかったのでしょう。

津軽では、麻布の目を糸で埋めた

一方の津軽地方は、現在の青森県西部、弘前市を中心とする地域です。江戸時代には津軽氏が治めた弘前藩を中心とし、南部とは長く別の政治圏でした。ここに残されたのが、津軽こぎん刺しです。

「こぎん」は、もともと麻布で作られた短い着物を指し、江戸時代には「小布」「小巾」とも書かれました。その麻の着物に糸を刺していったものが、こぎん刺しです。こぎん刺しでは、麻布の縦糸を数えながら横方向へ糸を通していきます。地布である麻布の目そのものが、方眼紙の線のような役割をします。
つまり、布目を数えて刺すこぎん刺しは、麻布の「目」が見えることを利用した技術です。
しかも、糸を刺す目的は模様だけではありません。粗い麻布の隙間を糸で埋めれば、布は密になり、風を通しにくくなります。たくさん刺せば、その分厚みも増し、補強にもなります。

ここで一つ、これまでよく目にする「濃紺の麻布に白い木綿糸」というこぎん刺しのイメージについても触れておきたいと思います。

田中忠三郎氏は『図説 みちのくの古布の世界』で、濃紺の麻布に白木綿糸を刺したこぎんを紹介しています。しかし『青森県史 文化財編 美術工芸』では、青森市が所蔵する古いこぎんの地布315点を調査したところ、ほぼすべてが縹色(はなだいろ)だったとしています。
現在よく知られる「濃紺に白」という姿が、昔のこぎんすべてに当てはまるわけではないのです。色もまた、時代によって変わっていました。

木綿を着たくても、自由には着られなかった

津軽こぎんを考えるうえで、もう一つ重要な背景があります。木綿は、単に高価だっただけではありません。津軽領では、その流入や着用そのものを抑える政策がとられていました。

『青森県史 文化財編 美術工芸』によると、津軽領では1655年に新しい木綿や古手木綿の輸入を禁止し、1664年にはそれらに輸入税をかけました。さらに1703年には、農村部の人々が染木綿の衣服や股引などを着ることを「無用の費」とし、働くときには地布、つまり麻衣以外を着ないよう命じています。

なぜ、そこまで木綿を抑えようとしたのでしょう。
理由の一つは、麻と木綿の「経済的な違い」にあります。
麻なら領内で育て、糸にし、布にすることができます。ところが木綿は、津軽では十分に生産できません。木綿を着るには、外から商品として買わなければなりませんでした。
西日本で木綿生産が発達し、木綿製品が北へ大量に入るようになると、農村の人々も暖かく柔らかな木綿を欲しがるようになります。でも、農民が木綿を買えば、その代金は領外へ出ていきます。

『青森県史』は、こうした木綿製品の流入が「自給自足を旨とする藩体制をおびやかした」と説明しています。だから津軽藩は、領内で作ることのできる麻を着せ、外から入ってくる木綿への支出を抑えようとしたのです。

今の私たちの感覚からすると、少し不思議に感じます。
今は、遠くの地域や海外で作られた商品を買うことがごく普通です。けれど当時の藩にとっては、外から買うものを増やすより、できるだけ領内で作ったもので暮らしてもらうことの方が都合がよかった。

現代とは経済の仕組みそのものが違うので単純には比べられませんが、考え方の向きはかなり違って見えます。
(個人的には「外から買うものを増やすより、できるだけ領内で作ったもので暮らしてもらう」。とても理にかなっていると思います。というよりもそうすべきです。大賛成です。実際、食料自給率は日本は低すぎます。・・・と、個人の考えは横においておいて。)

木綿を着た方が暖かい。でも、高い。しかも自由には着られない。
そうした条件の中で、麻の衣服をどう暖かくするかという工夫が必要になりました。
徳永幾久氏『刺し子の研究』は、津軽では木綿布の着用が制限される一方、木綿糸は規制の外にあったため、粗い麻布の目を木綿糸で塞いでいったと説明しています。徳永氏は、この「目塞ぎ刺し」がこぎん刺しへつながったと考えています。

木綿布は着られない。けれど木綿糸なら使える。

ならば、麻布そのものに糸を刺して、風の通る隙間を塞いでしまう。
こぎん刺しを生んだ背景の一つに、寒さだけではなく、素材の不足、流通、そして藩の衣服規制まであったことが見えてきます。

出典:『青森県史 文化財編 美術工芸』青森県、2010年、pp.456–459「こぎん刺しの生まれた背景」。1703年の原史料は「要記秘鑑」『青森縣史 第二巻』1926年、p.126。

その木綿糸は、どうやって手に入れたのか

では、綿を十分に作れない津軽で、木綿糸はどうやって手に入れたのでしょう。これも、一つの経路だけではなかったようです。

田中忠三郎氏は、目の粗い麻布に刺された白木綿糸について、上方から移入されたものと記しています。上方とは、現在の京都・大阪を中心とする地域です。古い木綿布についても、北前船によって上方から運ばれてきたことが記されています。西日本で使われた木綿が遠く北まで運ばれ、そこで再び衣服の材料になっていたのです。ただし、こぎんの刺し糸が最初から木綿だったわけではありません。

1788年の『奥民図彙』には、こぎんについて白い麻糸で模様を刺す記録があります。『青森県史』も、刺し糸が麻から木綿へ変わった時期ははっきり分からないとしています。木綿糸が使われるようになってからも、その入手方法はさまざまでした。

高価な白木綿糸を購入する場合もあれば、古い木綿布をほどいて、その糸をもう一度使った可能性も指摘されています。明治になると、綿を糸にする前の「篠巻綿」や切糸が、深浦港、鰺ヶ沢港、青森港へ運び込まれた記録も残っています。

木綿糸は、当たり前に家にあった材料ではありませんでした。遠くから買う。古布から糸を取り出す。少しずつ手に入れ、大切に使う。その貴重な糸を麻布へ一本ずつ重ねていったのです。

出典:『青森県史 文化財編 美術工芸』青森県、2010年、pp.465–466「こぎん刺しの地布・染め・刺し糸」

同じ青森なのに、なぜ違ったのか

現在は一つの青森県ですが、江戸時代の人々が同じ政治圏で暮らしていたわけではありません。日本海側には津軽藩領、太平洋側には南部藩領がありました。田中氏は、青森の衣服に地域差が生まれた理由の一つとして、この藩領の違いを挙げています。さらに、稲作地帯と畑作地帯、山村と漁村といった生業の違いも、衣服の形に関係したとしています。

南部には畑作の比重が大きい地域があり、太平洋側では夏にも「ヤマセ」と呼ばれる冷たい北東風が吹きます。一方の津軽には、雪の多い日本海側の暮らしがあります。同じ「寒い青森」でも、寒さの質も、仕事も、手に入る素材も違いました。そう考えると、「東北は寒いから刺し子をした」だけでは、とても説明できません。

どんな寒さの中で、どんな布を手に入れ、何をして働いていたのか。そして、その布を着ることが許されていたのか。

刺し子を見るには、その土地の暮らしだけでなく、社会の仕組みまで見る必要がありそうです。

「日本三大刺し子」は、すべて東北にある

現在では、津軽こぎん刺し、南部菱刺し、庄内刺し子の三つを「日本三大刺し子」と呼ぶことがあります。三つとも東北地方です。
ただし、この三つだけが日本の刺し子という意味ではありません。また、昔の人々がこの三つをまとめて「三大刺し子」と呼んでいたわけでもありません。材料も、刺し方も、作られた衣服もそれぞれ違います。
むしろ面白いのは、同じ東北の中で、寒さや暮らしへの答えがそれぞれ違ったことだと思います。

そして刺し子は、東北だけのものでもありません。古い資料を辿ると、佐渡、遠州、丹波をはじめ、東北以外にも布を重ねて刺し、補強したり厚みを持たせたりする仕事が残されています。

刺し子を一つの決まった技法として見るより、その土地で手に入る布と、その土地の暮らしに合わせて生まれた布仕事として見た方が、実際の姿に近いのかもしれません。

寒さへの答えは、一つではなかった

寒い土地では、布をどう重ねたのか。
南部では、麻布の裏に古手木綿を重ねました。津軽では、麻布の目へ糸を重ねていきました。そこには寒さを防ぐことだけでなく、布を丈夫にすること、貴重な材料を無駄なく使うこと、働く身体を守ること、そして美しく装うことまで重なっています。
気候、生業、素材、流通、藩領、そして衣服をめぐる決まり。いくつもの条件が重なって、一枚の衣服になっていったのでしょう。そう考えると、次に気になることがあります。

津軽では、木綿の衣服を自由に着ることのできない時代がありました。一方、1628年の幕府の規制では、百姓は絹を禁じられ、麻や木綿までとされていました。同じ江戸時代でも、住む土地によって条件が違います。江戸の町に暮らす人と、東北の山村に暮らす人。武士と百姓。裕福な家と、そうでない家。同じ日本に暮らしていても、手に入る布も、着ることのできる衣服も同じではありませんでした。

次回は、「同じ日本でも、着られるものは同じではなかった。」

地域、身分、流通、経済、そして衣服をめぐる決まり。同じ時代を生きた人々の衣生活が、実際にはどれほど違っていたのかを辿ってみたいと思います。

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