第一弾|布をめぐる10の問い
第4回|針を持っていたのは、誰だったのか。
刺し子というと、針を持つ女性の姿を思い浮かべます。
実際、古い資料を読んでいても、刺す、縫う、織る、紡ぐといった布仕事の中に、女性たちはたびたび登場します。では、昔の衣服作りは、すべて女性の仕事だったのでしょうか。資料を読んでいくと、もう少し複雑な暮らしが見えてきます。
男性が裁ち、女性が刺す
田中忠三郎氏の『南部つづれ 菱刺し模様集』には、青森県の百石・五戸地方で、股引(ももひき)を作るときの仕事の分担が記されています。百石は、現在でいうと青森県上北郡おいらせ町の一部。旧百石町は2006年に下田町と合併し、現在のおいらせ町になりました。五戸は、現在の青森県三戸郡五戸町周辺です。
股引とは、腰から脚を覆う細身の下衣のこと。この地域では「たっつけ」と呼ばれ、麻布に古手木綿を重ねて刺し綴ったものが、山や畑での仕事などに使われていました。興味深いのは、その作り方です。
百石・五戸地方では、男性が股引の「裁断」をしていたと記されています。裁断とは、反物の状態の布から、股上や股下など必要な寸法を取り、股引として縫い合わせられる形に切り分ける工程です。今なら型紙を置いて布を裁つ場面を思い浮かべると分かりやすいかもしれません。
そのあと、切り分けられた麻布と木綿布を重ね、針で刺し綴っていくのは女性たちの仕事でした。つまり、一着の衣服を最初から最後まで一人の女性が作るのではなく、「布を裁つ人」と「針で刺し綴る人」が分かれていた地域があったのです。
もちろん、これは百石・五戸地方に残された記録です。日本中で同じように仕事を分けていたわけではありません。それでも、「昔の衣服作り=女性の仕事」と一言でまとめてしまうと、見えなくなるものがありそうです。
女性は、いつ針を持っていたのか
ここで、もう一つ気になることがあります。女性たちが針を持っていたことは分かりました。では、一日のうち、いつ針仕事をしていたのでしょう。
田中忠三郎氏の『図説 みちのくの古布の世界』には、冬の農閑期の様子が記されています。主婦たちは冬になると衣服作りに精を出し、家族が寝静まったあと、囲炉裏の残り火を明かりにして針仕事をしたといいます。
家族が寝たあと?
これを読んだとき、なんて大変な作業だろうと思いました。一日の仕事を終え、家族が寝たあとに、今度は針を持つ。しかも、囲炉裏の残り火を明かりにして、細かな針目を追っていくのです。
資料に「目が疲れた」と書かれているわけではありません。それでも、明るい照明の下で刺し子をしている今の私でさえ、細かな針仕事は目を使います。暗い夜、囲炉裏のそばで針を進めていた人たちはどうだったのだろう、と考えてしまいます。今ではなかなか想像できない仕事量です。
では、針を持つ前の昼間、その人たちは何をしていたのでしょう。
朝四時から、夜なべまで
福井貞子氏の『木綿口伝』には、一人の女性の記憶が残されています。明治二十年生まれの河島つちさんです。娘時代には綿を作り、それを紡いで糸にし、地機で木綿を織っていました。白木綿一反を二日がかりで織らなければ親に叱られ、夜になると糸を挽く。そして朝は四時に起こされ、牛を連れて山へ草刈りに行ったと語っています。
もちろん、これは河島さん一人の記憶です。「昔の農民はみんな朝四時からこのように働いていた」と広げることはできません。それでも、朝の山仕事、農作業、綿作り、糸紡ぎ、機織り、そして夜なべ。今の私たちの一日から考えると、とても同じ一日の中に収まりきるとは思えないほどの仕事が重なっています。
その暮らしを知ると、刺し子や針仕事だけを取り出して、「昔の女性たちは夜に手仕事を楽しんでいた」といったきれいな物語にはできません。針仕事もまた、一日の長い労働の続きにあったのでしょう。
けれども、「大変な労働だった」という一面だけで終わらせるのも、少し違うようです。
『木綿口伝』の冒頭で福井氏は、厳しい暮らしの中にいた女性たちについて、表立って自己主張することは少なくても、内側には強い創作意欲があり、「織りによって自己を形成してきた」と書いています。
また、村の娘たちが集まって綿繰りや糸紡ぎをした「娘宿」については、学校もなかった時代の娘たちにとって「唯一の楽しい社交場」であり、夜なべ仕事も一人でするより、みんなで集まってする方が楽しかったと記されています。夜食に番茶とたくあんを食べながら、夜中まで一緒に働いたそうです。
仕事であることには変わりありません。それでも、そこで人と話したり、自分の手で何かを作ったりする時間に、別の意味を感じていた人もいたのかもしれません。
後年まで機を織り続けた女性の中には、「好きな織物が出来るなんてもったいない、生きる張り合いです」「機を織っていれば、毎日が楽しく心が晴ればれする」と語った人もいました。
時代も年齢も異なるので、これをそのまま昔の夜なべの針仕事に重ねることはできません。
それでも、布仕事はただの「苦役」だったのではなく、ときには自分を表すこと、人とつながること、そして心を支えるものにもなっていた。その両方を見ておきたいと思います。
なぜ、刺し子の資料には農村の暮らしがよく出てくるのか
刺し子について調べていると、農作業や農家の暮らしが何度も出てきます。これには、当時の社会そのものも関係しています。
近世史家の渡辺尚志氏は『百姓たちの江戸時代』の中で、江戸時代の人口のおよそ8割が「百姓身分」の人々だったとしています。ただし、ここでいう「百姓」は、現在の感覚でいう「専業農家」とまったく同じではありません。田畑を耕す一方で、織物を作ったり、それを売ったり、地域によっては漁業や山の仕事など、いくつもの生業を組み合わせて暮らしていました。
つまり「人口の8割が農民だった」と言い切るより、「人口の約8割が百姓身分で、その暮らしの多くが農業を基盤としながら、さまざまな仕事を組み合わせていた」と考える方が実態に近そうです。
そして、私たちが今見ている刺し子や古い布の資料には、寒さや摩耗から身体を守るための仕事着や生活着が数多く残されています。
だから、刺し子を追っていくと、自然と農作業や農村の暮らしへ入っていくのでしょう。
刺し子が「農民だけのものだった」という意味ではありません。けれども、働くための衣服を自分たちで作り、補強し、直しながら使い続けた人々の暮らしを知ることは、刺し子を理解するうえで外せないのだと思います。
自分の家の仕事だけでは終わらなかった
さらに柳田國男氏の『農村家族制度と慣習』を読むと、農村の人たちが働いていたのは、自分の家のためだけではなかったことも見えてきます。
ここで登場するのが「名子(なご)」という仕組みです。
少し分かりにくいので、まず「本家」から考えてみます。
ここでいう本家は、現在の「親戚の本家」という言葉より、もっと生活そのものに関わる存在でした。村の中で大きな家や土地を持ち、奉公人や分家した人たちの生活を支える側の家です。飢饉などに備えて食料を蓄えたり、冠婚葬祭のときには着物や道具を貸したりする一方、農繁期には周囲の人々の労働を集める立場でもありました。
たとえば、若い頃にその大きな家で奉公していた人が、やがて独立して自分の家を持つ。そのとき、本家から住む家や田畑、山など、暮らしていくための基盤を分けてもらうことがありました。ただし、家を持ったからといって、本家との関係が終わるわけではありません。
田植えや刈入れなど、人手が必要なときには本家へ働きに行く。そのように、本家から独立したあとも労働のつながりを持ち続けた人や家を、「名子」と呼んだ地域がありました。
名子は、ある年に突然できた制度ではありません。柳田は、江戸時代初期に年季奉公の仕組みが広がっていくなかで、奉公人などがやがて別の家を持ち、それでも元の主人筋との労働関係を残す形へ変化していった、と説明しています。柳田がこの内容を講義したのは1927~1928年ですが、その時点でも旧南部領には本名子、新名子、山名子などの仕組みが残っていると記しています。つまり、江戸時代の農村社会を考えるうえで重要でありながら、地域によっては近代までその名残が続いた仕組みだったことが分かります。
そして名子が本家へ提供した労働を、柳田は「賦役(ふえき)」と呼んでいます。賦役は、現代の税金そのものではありません。
「何かを納める負担」という意味では税に少し似ていますが、現金を国や自治体へ払うのではなく、この場合は本家との関係の中で、労働そのものを差し出すのです。
田植え、草取り、刈入れだけでなく、家事、薪取り、乾草刈りなどにも名子の労働が使われました。地域によっては、女性を主に農作業へ、男性を主に漁業へ充てた例も柳田は記しています。自分で好きな仕事を選んだというより、本家で必要とされる仕事へ労働力を出していた、と考えた方が分かりやすいでしょう。女性も男性と同じように「一人前」の働き手として数えられ、男女が本家へ働きに出る日数がほぼ半々だった地域もあったといいます。
「百二十人の賦役」
ここは、私自身も最初に読んだとき、数字だけではよく分かりませんでした。
柳田は、ある地域の例として、家や屋敷、畑、薪を取る山や放牧地などを使わせてもらう代わりに、旧暦四月から十月までの七か月間に「百二十人乃至百三十人」の賦役を納めたと書いています。別の例では「五六十人位」とあります。
現代の暮らしに無理やり置き換えるなら、こんなイメージでしょうか。
「住む家や畑など、生活するための基盤を本家から使わせてもらう。その代わり、田植えや刈入れで人手が必要になったら、自分の家から働き手を出す。」
家賃の一部をお金ではなく「働くこと」で返す、と考えると少し分かりやすいかもしれません。ただし、もちろん現在の賃貸契約や雇用とはまったく違い、本家と名子という家同士の強い関係の中にあった仕組みです。
では「百二十人乃至百三十人」とは、百二十日から百三十日という意味なのでしょうか。
ここは断定できません。柳田の本文にはこの数字が書かれていますが、「一人が一日働けば一と数えた」のか、一家から複数人出た場合にどう数えたのかなど、具体的な算定方法までは今回確認した資料からは分かりません。
なので「一人の人が七か月のうち百二十日以上、本家で働かされた」と考えるのは正解かどうか分かりません。
ただ、ひとつ確かなのは、名子の人たちはまず本家の仕事を優先し、そのあとに自分たちの仕事をした、と柳田が記していることです。自分の田畑を耕す。家のことをする。それだけでも大変です。そこに本家の仕事が加わる。そして家族が着る布を作り、衣服を整え、冬になれば家族が寝たあとに針を持つ人もいた。今では考えられないほどの仕事量です。
針を持っていたのは、誰だったのか
ここまで見てくると、最初の問いに少し違った答えが見えてきます。
「針を持っていたのは、誰だったのか。」
今回確認した資料の中で、実際に針を持つ人として多く登場するのは、やはり女性たちです。娘であり、妻であり、母であり、家の主婦でした。だから、「刺し子は女性の手仕事だった」という言葉そのものが間違っているわけではありません。ただ、それだけでは、あまりにも多くのものを落としてしまいます。
その女性たちは、刺し子だけをする人ではありませんでした。田畑で働き、家の仕事をし、糸を作り、布を織り、ときには本家のためにも働く。そして一日の終わりに、ようやく針を持つ。
けれど、その針や糸に向かう時間が、ただの労働だけではなかった人もいたのでしょう。布を作ることが自分を表すことになり、誰かと集まって手を動かす時間が楽しみになり、長い人生の中では心の支えにさえなっていった。
一方で、一着の衣服ができるまでを見れば、男性が布を裁つ地域もあり、老人や子どもが綿繰りを担い、男性が綿打ちをする地域もありました。
私が今回いちばん残ったのは、「誰が針を持ったのか」以上に、「その人は、どんな一日の中で針を持ったのか」ということでした。
刺し子の一針一針の向こうには、農作業があり、家族の生活があり、寒さがあり、衣服を作らなければならない事情があり、限られた時間があります。そして、その厳しさの中にも、手を動かすことに自分なりの楽しみや誇りを見つけた人がいた。その両方を知ったうえで、もう一度刺し子を見てみたいと思います。
刺し子を暮らしの中へ戻してみる。
そうすると、今まで模様や技法として見ていた針目が、少し違って見えてきます。そして、ここまで来ると次の疑問が生まれます。
暮らしが針仕事の姿をつくったのだとしたら、暮らしの違う土地では、布の刺し方も違っていったのではないか。
今回出てきた百石や五戸も青森県です。けれど、同じ青森県の中でも津軽と南部では、気候、生業、手に入る布、流通、そして藩領も違いました。そこには、津軽のこぎんがあり、南部の菱刺しがあり、さらに木綿布を重ねた刺しこ着もあります。似て見えるものもありますが、同じものとして一括りにはできません。
なぜ、これほど違うのでしょう。
寒さの違いでしょうか。手に入る素材でしょうか。仕事の違いでしょうか。それとも、その土地を治めていた領地の制度や、布の流通まで関係していたのでしょうか。人の暮らしを見たら、次はその人が暮らした土地を見てみる。
次回は、同じ青森なのに、なぜ布の刺し方はこれほど違ったのか。津軽と南部を入り口に、刺し子を「地域」という視点から辿ってみたいと思います。
刺し子ジャーナル|文献からたどる刺し子
第一弾|布をめぐる10の問い