刺し子ジャーナル|文献からたどる刺し子
第一弾|布をめぐる10の問い

第2回|お繕いは、破れる前から始まっていた。

「お繕い」と聞くと、穴が開いた布を直すことを思い浮かべます。
私もそうでした。
服に穴が開いた。
縫い目がほどけた。
布が破れた。
そこで初めて、針と糸を取り出して直す。
でも古い裁縫書を読んでいると「あぁ、そうだったなぁ」と思い出させる記述がありました。布が破れるまで、待っていないのです。
少し薄くなってきた。
擦れてきた。
このまま使えば、もうすぐ破れそう。
その段階で、布を当てる。
傷みが大きくなる前に、先に手を打つ。
お繕いは、破れてから始まるものではありませんでした。むしろ、破れる前から始まっていたのです。

前回は、布を一枚手に入れるまでには多くの時間と手間がかかり、古着になっても布にはまだ役目が残っていたことを文献から見てきました。簡単には手に入らない布だからこそ、できるだけ長く使いたい。

だとすれば、「破れたら直す」だけではなく「破れないように、先に手を入れる」という考え方が生まれたのも、自然なことだったのかもしれません。

今回は、そんな「破れる前のお繕い」を見てみたいと思います。

お繕いは、穴が開いてから?

昭和2年(1927年)に刊行された、川島裁縫女學校編『現代和洋裁縫全書―初歩から奥儀まで』という本があります。川島裁縫女学校が編んだ、和裁や洋裁、衣服の仕立て方などを体系的に教える技術書です。
この本には、「補綴法(ほてつほう)」として、布を繕う方法がまとめられています。その中に、興味深い二つの繕い方が出てきます。
ひとつは、色紙繕ぎ(しきしつくろい)
もうひとつは、刺し繕ぎです。
どちらも傷んだ布を直す方法ですが、手を入れるタイミングが違います。

色紙繕ぎは、布がまだ破れてはいないものの、擦れて薄くなってきた段階で行う繕いです。傷んだところより少し大きな布を裏から当て、それ以上傷みが広がらないようにします。

一方の刺し繕ぎは、すでに布が破れてしまったところに当て布をし、破れた部分を細かく刺しながら繕う方法として説明されています。

つまり、薄くなった段階で手を入れる。そして、破れてしまったら、さらに別の方法で直す。布の傷み具合を見ながら、繕い方を変えていたのです。
ただし、これは日本全国で統一されていた方法とは限りません。ここで、1927年頃の学校教育についても少し見ておきたいと思います。
この頃、すでに日本には義務教育がありました。1908年(明治41年)から、尋常小学校の6年間が義務教育になっています。ただし、現在のような小学校6年・中学校3年の9年間ではありません。尋常小学校を卒業したあと、高等小学校や高等女学校などへ進む道はありましたが、そこから先は義務教育ではありませんでした。

女子教育の中では裁縫も重要な科目の一つでしたが、すべての女性が同じ学校へ進み、同じ内容を同じ年数だけ学んだわけではありません。まして、この本を編んだのは裁縫を専門的に教える川島裁縫女学校です。
そこで体系化されている技術と、それぞれの土地の家庭で実際に行われていた繕い方は、分けて考える必要があります。

どの地域の人までこの方法を知っていたのか。
実際にどれくらいの家庭で行われていたのか。
家で親から子へ伝えられてきた繕い方と同じだったのか。

そこまでは、この一冊だけでは分かりません。暮らしている地域も違います。仕事も違います。手に入る布や糸も違えば、家計の状況や、家の中で受け継がれてきた裁縫の方法も違ったはずです。
そして、この本は「当時の人が実際にみんなこうしていました」と記録した生活調査ではありません。「こう縫う」「こう仕立てる」と技術を教えるための本です。
つまり、「教えられていた技術」と「実際の暮らしの中で行われていたこと」は、同じではない。ここは資料を読むうえで、とても大切なところです。

ですから、この本に載っている方法をそのまま「昔の日本ではみんなこうしていた」とすることはできません。でも少なくとも1927年には、「布は、破れてから直すだけではない」という考え方が、裁縫の技術として体系立てて説明されていた。そこは、この資料から確認することができます。

薄くなったところに、先に手を入れる

穴が開いてから直すよりも、薄くなったところを先に補強する。考えてみれば、とても合理的です。小さな傷みなら、まだ直しやすい。でも、そのまま使い続ければ糸が切れ、布が裂け、穴が大きくなっていきます。

そうなる前に、裏から布を当てる。

弱くなったところだけを支えておけば、まだその衣服を使い続けることができます。同じ『現代和洋裁縫全書』には、肩当(かたあて)居敷当(いしきあて)も登場します。肩当は、着物の肩の内側などに当てる布。居敷当は、腰からお尻にあたる内側に当てる布です。どちらも、衣服の中でも負担のかかりやすい場所に、あらかじめもう一枚布を添える仕立ての工夫です。

そもそも「仕事着」って、誰が着ていたのだろう

ここから資料には「仕事着」という言葉が何度も出てきます。でも考えてみると、今の私たちが普段着ている「日常着」と、昔の「仕事着」は何が違うのでしょう。

そしてもう一つ。
昔の人は、みんな仕事着を着ていたのでしょうか。
もちろん、そうではありません。ここで扱っている「仕事着」は、特に農作業、山仕事、漁など、身体を使って働くときの衣服を中心にしています。
田んぼで屈む。山で枝や茨の中を歩く。船の上で水や風を受ける。物を運ぶ。腕を何度も動かす。
そうした仕事では、衣服にも、動きやすさ。濡れへの対応。虫や茨から身体を守ること。傷みやすいところを補強すること。といった機能が求められました。
でも、日本にはもちろんそれ以外の仕事をする人もいます。商人もいます。役所働く官吏もいます。職人もいます。町で接客をする人もいます。商いをする人であれば、前掛けや半纏など仕事に適したものを身につけることもありましたが、農作業の仕事着と同じものを着るわけではありません。
また明治以降、官吏などの世界では洋服や制服、礼服の制度も整えられていきました。つまり、「働く人=みんな同じような仕事着を着ていた」わけではないのです。

仕事によって、必要な衣服は違います。地域によっても違います。農村と都市でも違います。そして同じ職業でも、時代によって装いは変わっていきます。
「仕事着」という一つの言葉の中にも、ずいぶん幅があるのですね。さらに、「仕事着」と「日常着」がきっぱり分かれていた、と考えるのも違うようです。

資料を見ると、仕事着として使われながら日常にも着られた衣服があります。また、美しく刺した仕事着を祭りなどで着た例もあります。つまり、「これは仕事着」「これは普段着」と、いつも一着につき一つの役割だけがあったわけではない。同じ衣服でも、着る場面によって役割が変わることがあったようです。

今回見ていきたいのは、その中でも特に、身体を大きく使って働く人たちの衣服です。なぜなら、何度も同じ動作を繰り返す衣服には、布がどこから傷んでいくのかが、とてもよく現れるからです。

破れる場所には、理由がある

では、なぜ「ここは傷みやすい」と分かったのでしょう。その答えの一つは、仕事着を見ると分かります。徳永幾久氏の『刺し子の研究』には、青森県下北地方の「カタジバン」という衣服が紹介されています。麻布を使った仕事着で、肩などには刺し模様が入れられていました。
その中で徳永氏は、袖口について、労働のときにすり切れやすいため、黒い木綿布を使い、細かな縫刺しをして丈夫にしたと記しています。場合によっては、さらに布を重ねて刺すこともあったといいます。

なぜ袖口なのでしょう。袖口は、手を動かすたびに擦れます。仕事の道具や物に触れることもあります。何度も何度も腕を動かせば、同じ場所に負担がかかります。だから、そこから傷んでいく。

資料に残された「労働のときにすり切れやすい」という記述を見ると、袖口の針目は単なる飾りではなく、働く身体と深く結びついていたことが分かります。

柳田國男氏の『木綿以前の事』にも、仕事着の肩と裾を縫い取って丈夫にする「肩裾」という方法が紹介されています。
肩。袖口。裾。なぜ、そこに針目が集中しているのか。その場所を見ていくと、どんな動きをしていたのか。どこが擦れたのか。どこに力がかかったのか。衣服を着ていた人の身体が、少しずつ見えてきます。破れる場所には、理由があるのです。

仕事着は、身体の動きに合わせていた

傷みやすい場所を補強するだけではありません。仕事着そのものの形にも、働くための工夫がありました。瀬川清子氏の『きもの』を読んでいると、「袖」が何度も出てきます。
袖口の広さ。袖付の位置。袖下の線。腕貫(うでぬき)や手甲(てっこう)。
袖の形は、ただ見た目のために決まっていたわけではありません。腕を動かしやすくする。袖が仕事の邪魔にならないようにする。虫や茨から腕を守る。風や雨に対応する。その土地の仕事や暮らしに合わせて、衣服の形にもさまざまな工夫がありました。

裾も同じです。長い着物は、座ったり歩いたりするにはよくても、田畑で身体を大きく動かす仕事には邪魔になることがあります。瀬川氏は、農村の仕事着について、袖や裾の短い衣服が使われていた例を紹介しています。

袖を細くする。丈を短くする。脇を開ける。腕を守るものをつける。仕事着は、単に「古い時代の服」ではなく、働くための道具でもあったということが見えてきます。
そして、身体を動かせば衣服は擦れます。よく動かすところは、よく傷む。傷みやすい場所には布を重ねる。薄くなってきたら、破れる前に当て布をする。こうして見ていくと、衣服の形とお繕いは、別々の話ではないように思えてきます。

「直す」より、長く使える状態を保つ

ここからは、資料を読みながら感じたcanohaの考察です。
私はこれまで、お繕いを「修理」だと思っていました。何かが壊れる。それを元に戻す。服なら、穴が開いたから塞ぐ。そんなイメージです。
でも今回の資料を読んでいると、少し違って見えてきます。
布が薄くなっていないかを見る。擦れてきた場所に気づく。ここは傷みやすいと知っている。そして、大きく破れる前に手を入れる。これは「壊れたものを直す」というより、長く使える状態を保つための手入れに近いのではないでしょうか。

今でも、革靴ならクリームを塗ります。木のテーブルも、補修や長く使うためにワックスやオイルを塗ることがあります。包丁なら、切れなくなる前に研ぐ人もいます。ところが衣服になると、私自身、破れるまで何もしないことがほとんどです。少し布が薄くなったからといって、そこに当て布をすることはほぼありません。
破れたときに、「あ、穴が開いた」と気づく。そのとき初めて、直すか、買い替えるかを考えます。

第1回で見たように、布を簡単には手に入れられなかった暮らしでは、それでは遅かったのかもしれません。せっかく時間をかけて手に入れた布です。できるだけ長く使うためには、傷みが小さいうちに見つける。早めに手を入れる。そして、また着る。そうした小さな手入れの積み重ねが、一着の衣服を長く使うことにつながっていたのではないでしょうか。

お繕いは、破れた布を直す技術だけではなく、布の変化に気づくことから始まる。資料を読んでいて、私はそんなふうに感じました。

ただ現代においての「お繕い」は違う側面も見せています。シミがついてしまったところを隠すために、かわいく「お繕い」をする。わざと「お繕い」したところを見せる。どうして用途が増えたのか。そこも気になるところです。

まとめ

現代の話は横に置いておいて・・・。
お繕いは、いつ始まるのでしょう。穴が開いたとき。破れたとき。糸がほどけたとき。私は、そう思っていました。

でも1927年の裁縫技術書には、布が薄くなった段階で行う繕いと、すでに破れた後に行う繕いが分けて記されています。
農作業など身体を使う仕事の衣服には、傷みやすい袖口に布を重ねたり、細かな針目を入れたりした例も残っています。肩や裾を丈夫にした衣服もありました。さらに、袖や丈そのものを仕事に合わせて工夫した衣服もあります。
こうした資料を重ねてみると、昔のお繕いは、「壊れたら直す」だけではなかったことが見えてきます。薄くなったところを見つける。傷みそうなところに布を当てる。破れる前に手を入れる。そして、また使う。布を長く使うためには、針の技術だけでなく、布の状態を見る目も必要だったのではないでしょうか。

一着の衣服には、こうして何度も手が入っていきます。当て布が増える。擦れた場所が直される。そして、やがて元の用途では着られなくなったとき、その布はどうなったのでしょう。衣服としての役目を終えたら、それで終わりだったのでしょうか。

次回は、「一着の服は、一生同じ服ではなかった。」
衣服が役割を変えながら使われていった、その先を文献から辿ってみたいと思います。

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