第一弾|布をめぐる10の問い
第1回|その布は、なぜ捨てられなかったのか。
いま、服が傷んだときには、お繕いではなく「買い替える」という選択をする人も多いのではないでしょうか。私もその中の一人です。
日本にはユニクロや無印良品など、手頃な価格で衣服を買えるお店がたくさんあります。
お繕いをしなくても、それほど困らない時代でもあります。
でも古い資料を読んでいると、布をすぐには手放さず、繕ったり、重ねたり、別のものに作り替えたりしながら使い続けたという記述が何度も出てきます。
なぜ、そこまでして布を使ったのでしょう。
「昔の人は物を大切にしていたから」。
もちろん、それもあったのかもしれません。
でも、本当の理由はそこだけではないように私は感じます。
なぜなら、今のようにものが潤沢にある時代ではなかったから。
もちろん昔にも、布を売る店や市、古着の流通はありました。
ただ、いつでも、どこでも、必要な布を簡単に買えたわけではありません。
地域や時代によっては、自分たちで素材を採り、糸を作り、布を織ることそのものが暮らしの一部でした。
布は、どのように作られていたのか。
どうやって手に入れていたのか。
そして暮らしの中で、どれほどの価値を持っていたのか。
まずはそこから、文献を辿ってみたいと思います。
木綿が当たり前ではなかった頃
木綿が広く使われる以前、地域によっては、麻だけでなく藤や科、マダなど、その土地で得られる植物の繊維も利用されていました。
瀬川清子氏の『きもの』には、そうした植物から布を作っていた暮らしが記されています。たとえばマダ布の例を見てみましょう。ここでいう「マダ」は、瀬川氏が東北でシナノキと呼ばれる木として紹介しているものです。その木の樹皮から繊維を取り出し、糸にして織ったものがマダ布です。木の皮から布を作る、と考えると、今の私たちには少し驚きがありますね。
まず山へ入り、マダの木から樹皮を採ります。それを煮て、揉み、川でよく洗う。さらに薄い皮を一枚ずつはぎ、干しておきます。布を作るときには、その皮を柔らかくして細く裂き、それを一本一本つないで糸にしていきます。
さらに糸車で撚りをかけ、ようやく機で布に織っていきます。地域の例では、田植えが終わった頃に男性が樹皮を採り、その後の工程を家の女性たちが担っていたことも紹介されています。
つまり一枚の布を作る仕事は、「機で織る」ところから始まるのではありません。
山へ入り、材料を採る。
皮を加工する。
糸を作る。
そして、ようやく布を織る。
いま私たちは、布を使いたいと思えば、ユザワヤやOKADAYAといった手芸店へ行き、並んでいる布の中から好きなものを選ぶところから始められます。でも布そのものを家や地域の中で作っていた暮らしでは、その「布を一枚手にする」ところに、すでにこれだけの時間と手間がかかっていました。布をなぜ使い続けたのかを考えるとき、まずこの「布になるまで」を知っておく必要がありそうです。
木綿が来ても、誰もがすぐ着られたわけではない
では、木綿はいつ日本へやってきたのでしょう。
武部善人氏の『綿と木綿の歴史』には、延暦18年(799年)、三河国に漂着した人物が綿の種を持っていたという記録が紹介されています。翌年には、その種を紀伊、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐、太宰府などで栽培させたとも記されています。ただし、このときの綿作はそのまま日本に定着したわけではなかったようです。
その後も綿の伝来や栽培についてはいくつもの記録や説があり、国内で綿作が広がっていくのは、ずっと後の15〜16世紀、戦国時代の頃になります。つまり、
木綿が日本へ伝わったこと。
国内で栽培されるようになったこと。
そして、庶民が日々の衣服として木綿を使えるようになったこと。
これは、すべて同じ時期ではありません。地域による差もありました。
瀬川清子氏の『きもの』には、秋田県側では明治の半ば頃(1890年前後)まで、マダ布が盛んに作られていた地域があったことが記されています。村の女性たちはマダの皮を手に入れ、糸にし、三反、五反と布を織りためていました。そして「布買い」が村へ来ると、その布を売って現金に換えます。そのお金で買ったものの一つが、木綿切れでした。
自分たちで布を作っているのに、その布を売って、別の布である木綿を買う。少し不思議にも見えます。でも、この例を見ると、彼女たちは単に「布を買う人」ではありません。
自分たちの手で作ったマダ布を売る。そこで得たお金で、必要な木綿切れを買う。布を作ることと、布を買うことが、家の暮らしの中でつながっていたことが分かります。
そして瀬川氏は、木綿切れを買えることを女性たちが喜んだという話も残しています。少なくともこの地域、この時代では、木綿は今のように「欲しいときに、好きなだけ買える布」ではなかったのでしょう。
一反の布には、どれほどの重みがあったのか
布の価値は、値段だけでは測れません。
作る時間。材料を手に入れる手間。家計の中での位置。そして、一枚の布から何を作れるのか。いくつもの要素が重なっています。田中忠三郎氏の『南部つづれ 菱刺し模様集』には、青森県三戸郡五戸町地方の例として、麻布一反(三丈三尺。現在の長さにすると約10メートル)から、まかないを一枚。まかないとは、一日の仕事を終えたあとなどに家の中で着た、丈の長い麻布の着物です。田中氏は「屋内常用着」と説明しています。
たっつけを一着。たっつけとは股引(ももひき)のことで、現在の感覚なら、脚に沿う細身の作業用ズボンのような衣服です。
そして、三幅前掛けの中央一幅分。三幅前掛けとは、布を三幅使って仕立てた前掛けで、腰から前側を覆うものです。中央の布の左右に別の布をつないで仕立てられていました。
ここで田中氏が「一反から取れる」と書いているのは、三幅前掛け一枚分すべてではなく、その中央に使う一幅分です。つまり約10メートルの麻布から、家の中で着る長い着物を一枚。仕事などで穿く股引を一着。さらに前掛けに使う布の一部。まで取っていたことになります。
一反の布を、どこにどう使うか。せっかく手間をかけて織った布です。できるだけ余すところなく使おうとしていたことが、この一例からも見えてきます。また横山源之助氏の『日本之下層社会』を読むと、明治期の庶民の暮らしの中には、質屋や古物商、古道具などが身近に存在していたことが分かります。
衣服や家財は、ただ使うだけのものではありません。家計が苦しくなれば、質に入れる。古くなっても、古着として売る。まだ使える布なら、別のものに仕立て直す。一枚の布や一着の衣服には、着ている間だけではない「次の価値」が残っていたのではないでしょうか。
古着もまた、旅をしていた
新しい布だけが、衣服の材料だったわけではありません。
柳田國男氏は『木綿以前の事』の中で、東北の寒い地域へ、関西から木綿の古着が入っていたことに触れています。では、なぜわざわざ関西から東北まで、古着が運ばれていたのでしょう。背景の一つとして考えられるのが、綿の栽培に適した気候です。
武部善人氏の『綿と木綿の歴史』では、近世に綿作が広く普及していく一方で、寒冷地では綿の栽培が難しかったことが示されています。瀬川清子氏の『きもの』でも、寒い東北地方では麻布の生活が長く残り、西の地域で作られた綿が遠く秋田の鹿角まで運ばれていた様子が記されています。
自分たちの土地では十分に作ることのできない木綿。それでも、木綿を手に入れたい理由がありました。麻布そのものは、決して弱い布ではありません。瀬川氏も、麻布は丈夫で、農作業などの仕事着として優れた素材だったことを記しています。
一方、田中忠三郎氏の資料には、麻布の裏に古手木綿を重ねて、補強と保温のために刺し綴った衣服が何度も登場します。つまり、麻布だけで着るのではなく、その内側に木綿の古布を重ね、二枚を細かく刺し綴る。そうすることで布に厚みが出て、傷みやすい衣服を補強することができました。同時に、寒い土地では保温にもなります。
木綿は、新しい反物としてだけ必要とされたのではありません。着古された木綿であっても、麻布に重ねる補強布として、まだ十分に役目があったのです。
ここからはcanohaの考察になりますが、私はこの点が、東北へ木綿の古着が運ばれていた理由を考えるうえでとても重要なのではないかと思っています。木綿の古着であれば、新品の木綿より手に入れやすかった可能性があります。そして多少使い古されていても、麻布の裏に重ねて補強する材料としてなら、まだ使うことができる。だからこそ、誰かが一度着た木綿にも、遠く東北まで運ぶだけの価値が残っていたのではないでしょうか。
新品の布だけではなく、すでに誰かが着た木綿の古着までが、遠く離れた地域へ運ばれていく。その背景には、単に「木綿の着物を着たかった」というだけではなく、限られた麻布を補強し、より長く使うための材料として木綿が必要だったという事情もあったのではないかと考えています。
一着の衣服が、一人の持ち主、一つの土地だけで終わらない。ある土地で役目を終えた木綿の着物が、別の土地へ運ばれ、そこでまた誰かの衣服になる。あるいは、ほどかれて別の衣服の裏側に重ねられる。そして傷めば、さらに繕われ、別の用途へ変わっていく。布そのものが、人から人へ、土地から土地へ旅をしていたようにも見えます。
捨てる前に、まだできることがあった
布が傷んだら「それで終わり」。
ではなかったのでしょう。資料には、古い布を重ねる、繕う、別の衣服に仕立て直す、寝具や生活用品へ回す、といった例が残っています。福井貞子氏の『染織の文化史―木綿と藍―』には、子どもの着物をほどいて蒲団や胴着へ回した例が紹介されています。蒲団地(ふとんじ)を衣服や裂織、雑巾などへ作り替える例もあります。「捨てない」というより、まだ使えるところを探す。そして、次の役目を与える。なぜ、そこまでしたのでしょう。ここも、資料に「布を捨てなかった理由はこれです」と一言で書かれているわけではありません。
ですが、ここまで見てきたことを重ねると、少し見えてくるものがあります。布を一枚作るだけでも、多くの時間と手間がかかる。木綿は、地域によっては自分たちの土地で作ることができない。買おうと思えば、お金も必要になる。古着でさえ、遠く離れた土地から運ばれてくる。そう考えると、まだ使える布を捨ててしまうことは、単に「古いものを一つ捨てる」ということではなかったのではないでしょうか。
その布をもう一度手に入れるまでにかかる、時間や労働やお金まで、一緒に手放すことになる。だから、破れたら繕う。薄くなれば布を重ねる。着られなくなれば、ほどいて別のものにする。最後には雑巾にまでして使う。
これは「物を大切にしましょう」という道徳だけから生まれた暮らしではなく、布が簡単には手に入らなかったからこそ、使える限り使わざるを得なかった。そんな現実の中から生まれた知恵でもあったのではないか。私は文献を読みながら、そんなふうに感じています。
そして、使い続ければ布は傷みます。ところがおもしろいことに、衣服はどこも同じように破れるわけではありません。
肩。膝。裾。背中。
傷みやすい場所には、その衣服を着ていた人の仕事や、身体の動きが残されています。
次回は、衣服の「破れた場所」から、昔の人の暮らしを見ていきます。
まとめ
その布は、なぜ捨てられなかったのか。
資料を読み始める前の私は、「昔の人は布を買う余裕がないから、お繕いをして長い間使えるようにするしかなかった」と思っていました。文献を辿っていくと、その通りではありますが、それだけでは説明できない暮らしが見えてきます。山へ入り、植物を採るところから始まる布作り。皮を加工し、糸を作り、機で織るまでの長い仕事。
木綿を自分たちの土地で作れず、遠くから運ばれてくる布を手に入れていた地域。自分たちで織った布を売り、そのお金で木綿切れを買った女性たち。約10メートルの麻布から、家で着る長着も、仕事に使う股引も、前掛けの一部も取る暮らし。そして、古着になった木綿でさえ、麻布を補強する材料となり、遠く別の土地で新しい役目を与えられていく。
こうした例を一つずつ見ていくと、「大切にした」というより、簡単には捨てられなかった。のですね。
布には、それを作るために使われた時間があります。人の手があります。家計の中での価値があります。そして、まだ次に使える可能性があります。そう考えると、刺し子の針目も少し違って見えてきます。ただ模様を刺した布ではなく、破れた布をもう一度使うために。薄くなった布をもう少し丈夫にするために。寒さをしのぐために。
必要に迫られて重ねられた針目がありました。そこに、いつから美しさや文様が加わっていったのか。それはまた、もう少し先で考えてみたいと思います。
刺し子を見ているつもりが、いつの間にか、その時代の布と人の暮らしを見ている。このジャーナルでは、そんなふうに文献を辿っていきたいと思います。
刺し子ジャーナル|文献からたどる刺し子
第一弾|布をめぐる10の問い